雁田城跡と岩松院 その2


▲雁田城の鳥観図 出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』4(2012年)

  すでに見たように、戦国時代には雁田城の尾根裾には根小屋と呼ばれる領主居館があったと見られています。岩松院の寺域境内がその居館跡地とされています。今回は、この場所の歴史について探索します。 これに関する史料はほとんどないので、地形痕跡からの想像ということになりますが。
  雁田山麓には鎌倉時代には苅田氏の領主館が、室町時代には荻野氏の領主館があったという伝承・伝説があります。しかし、雁田山麓といっても、松川河畔から小布施温泉ないし浄光寺の寺域を経て、さらに岩松院、そして二十端尾根の麓まで非常に広大で、そのうちのどこにあったのかは不明です。高井野(小布施)領を統治する拠点として好適な地点ということになると、浄光寺から岩松院までの尾根裾のどこかということになります。どこでも可能性はあります。
  地形や現在の植生(森林相)から考えると、矢竹が自生する浄光寺の参道脇か薬師堂の下辺りが鎌倉時代の居館の立地条件を満たしている場所ではないかと見られます。鎌倉時代の武士団の最も主要な武器としては弓で、ここにはその矢となる竹が密生している場所がいくつもあるからです。
  もちろん、現在の植生と7〜8世紀も前の地味植生は大きく違っている可能性が大きいので、この見方は根拠が確かとは言えません。むしろ、往時の集落群の配置とか中心的な集落がどこだったかによって、統治の中枢・拠点の位置が左右されるでしょう。



▲居館跡としての岩松陰鳥観図(上)と寺域平面図(下)▼

出典:宮坂武男、同上


  そこで、岩松院の寺域に焦点を絞って、より新しい時代から推理を始めてみましょう。岩松院がこの場所に移されたのは、いつ、どういう経緯だったかというところから。
  戦国末期から江戸初期にかけて、山城の山麓の根小屋(領主居館)の跡地に寺院が移設、建立されることはしばしばあったことです。戦国時代の山城遺構も岩松院の背後の尾根に残っていることからして、尾根裾の居館が現在地にあったことは間違いないでしょう。その頃は、高梨氏の勢力亜にあったので、その家臣の誰かの居館だったということかもしれません。
  1619年、広島藩主、福島正則は幕府に無断で城の修築をおこなったため武家諸法度違反で処罰・移封され、越後と小布施を領することになり、その5年後に死去します。その霊廟が山裾の一隅に設けられました。おそらく、そのときには寺があったから、寺域の高台に霊廟が建立されたものでしょう。
  ここで引用している図版を作成した宮坂武男氏は、そのように見ています。そして、領主居館は、堅固な石垣の上の壇にあったものと推測しています。戦国時代の居館居着いては、私も同じ意見です。戦国時代の縄張り構想では当然そうなるでしょう。
  しかし、鎌倉時代から室町中期までなら、築城構想(防衛構想)は違っていたので、もう少し標高を下げた場所に居館があったのではないかと考えられます。とはいえ、その推測は、居館がこの一帯にあったという仮定に立った場合の話です。 ひとつ南側の尾根裾かもしれませんし、浄光寺の現寺域かもしれません。浄光寺の西、山門前には桝形跡があるので、そこに鎌倉時代の城館と城下町――中心集落――があったと見ることも充分可能です。

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