▲海岳院の堂宇: 右奥(東側)にある小堂は阿弥陀堂だと思われる


▲桜の老木の下に安置された大黒天(右側)と蚕玉神社の碑



▲海岳院前の小径は、石仏から30メートル先で千国街道と交差する

▲海岳院脇で千国街道から東を眺める: 集落の中央部を横切る小径

▲海岳院の本堂(小径からの眺め)

▲境内の東端から小堂と本堂を眺める

▲小堂正面(南側)には下屋があって様子がうかがえない

▲さまざまな姿の石仏・石塔が並ぶ。左端2体は地蔵菩薩像らしい。

▲列をなしている小さな石仏群は三十三番観音像か

▲馬頭観音や地蔵が立つ背後には大日如来、弥勒菩薩などが並ぶ

▲左側は二十三夜塔と庚申塔

▲この形はこのお堂の庵主だった尼僧の墓標だという

◆変遷をたどった仏堂◆


お堂の名党側からの眺め

  海岳院は、金山神社から500メートルほど南東、千国街道の東脇に位置しています。30メートもない距離に大黒天と蚕玉神社の碑を祀った広場があります。借馬集落の中央からやや北西寄りの場所です。
  信仰のよりどころが集落の北西に偏っているのは、金山神社から海岳院にかけては農業用水の上流部で、周辺よりもわずかに標高が高い場所であることから、水害に対して比較的に安全なところだったからではないでしょうか。


裏手(北東側)からのお堂の様子

阿弥陀堂と思しき小堂の裏手

  海岳院は、1660年代(寛文年間)中頃までは、現在地よりも西――金山神社の南側辺りか――にあったそうです。もともとそこには観音寺と呼ばれた寺院があったのですが、荒廃し衰滅してしまい、それを再興した寺院が海岳院だということです。
  本堂破風の軒下に掲げられている扁額(説明)によると、1668年頃には大澤寺の末寺となったそうです。それがやがて1770年代(元文年間)には現在地に移転したのだとか。
  阿弥陀如来が本尊だったと伝えられています。
  ところが、明治維新期に松本藩が乱暴に強行した廃仏棄釈によって、廃寺になってしまい、このお堂と墓地が残されたようです。幕末までは禅尼が住職庵主だったそうです。

◆境内の石仏群◆

  境内に西端には今、石塔群や石仏群があります。これらについては、お堂の破風軒下に解説板が掲げられています。


赤い頭巾の二体は地蔵菩薩像

背の高い庚申塔。右端の3体は観音様と地蔵様か。

  この石仏群、石塔群は、借馬村内の路傍や田畑の畔や片隅に立っていたり、あるいは倒れていたり、土中に埋もれていたもので、道路整備や耕地整理のさいに発見し、ここに集めて並べ祀ったものだとか。もちろん、海岳院の境内に放置散乱していたものもあるそうです。
  赤い頭巾をかぶった2体の地蔵様は、1960年代半ばまで借馬村東西にあった共同葬祭場に祀られ、葬礼を施した死者の霊を守ってくれていた共同墓碑のような石仏なのだそうです。






▲千国街道東脇に祀られた蚕玉大神(左)と大黒天

▲蚕玉神大神の碑は、かつてここで養蚕が盛んだったことを示す

◆大黒天と蚕玉神社◆

  大町市には今、史跡や歴史遺構としては養蚕業が盛んだったことを示すものは残されていないようです。養蚕を統括する商業拠点がなかったということでしょうが、とはいえ、北安曇の山間村落――たとえば白馬村青鬼集落や大出集落――では家屋の南側を広く開口した茅葺造り古民家が残されていて、明治から昭和前期にかけて、山腹斜面で桑を栽培し蚕を育てた農家が多かった歴史を物語っています。
  この近隣では、三日町の丘に境内と社殿をもつ蚕玉神社が置かれています。大町街道沿いにあった三日町は、小川村高府などを中継地として長野や稲荷山など繭や生糸の集積地への連絡経路沿いにありり、さらに八坂や生坂、東山麓の千国街道沿いに明科、麻績、青木などを経て蚕糸業の拠点である上田に結びついていました。
  大黒天は、借馬や美麻にいくつも石像や社が保存されています。18世紀半ばに大黒天信仰が盛んになって、大町市街大黒町の追分――千国街道と大町街道との分岐点――に大黒天が建立されてから、2つの街道に沿って石像や社の建立が普及したのではないでしょうか。

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