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長野県大町市平借馬
 
 
田園を散策する


▲家並みの近くだが、純然たる水田地帯では農業用水は昔のままの「野生の小川」の状態を保っている

◆「野生の川」を発見!◆

  今回は借馬集落の家並みから離れて、家並みを取り囲む水田地帯のなかを散策してみました。
  そこで私は「野生の川」を発見しました。ここで「野生の川」と呼ぶのは、古くからの自然な姿を残したまま保全されてきた農業用水路(堰)です。人の手で保全されているのに「野生的」なのです。どういうことでしょうか。


▲金山神社の南側の水田地帯: 蓮華岳の鋭い尾根が迫ってくる


▲農業用水路は昔の小川のままの姿をとどめているようだ

  水田地帯では、かつて小さく不規則な形をなしていた田圃が今では主に長方形や台形に整備され大きな面積の圃場になっています。一帯の起伏を均し、不規則な形で分散していた各農家の小さな耕地を集めて、耕作しやすい面積と形に整理したのです。畔も農道も直線的になっています。そう意味では、水田地帯はきわめて人為的で人工的な姿に変わっています。
  ところが、水田地帯の中ほど(つまり奥深く)に入り込んで散策してみると、堰はコンクリートやブロックによる護岸工事を施されずに、水路の土手は野草に覆われた土や礫のままで、流れの底は石や礫で覆われているのです。流路もいたるところで曲がりくねっているのです。
  自然のままではなく、人の手が入ってそういう用水路の環境・植生が保たれているのでしょうが、少なくとも自然状態を模倣して「野生の小川」の景観を呈しています。
  昭和後期(1980年代以降)の圃場整備にさいしては、用水路の周りの伝統的な自然景観(植生)や地形を保全しようという構想がはたらいたものと考えられます。

■住宅地とは別の顔の田園■

◆懐かしい景観を保全する水路◆

  昭和期の水田開発や耕地整理で水田地帯の地形は昔とすっかり変わってしまった ・・・ 私はそういう印象を抱いていたのですが、集落の家並みから離れて水田地帯のなかに入り込んでみると、印象が変わります。田圃の形は圃場整理で整えられていますが、堰(水路)はコンクリートやブロックで覆われていません。流路も曲がりくねっています。昔の姿をとどめる小川の姿をとどめているのです。不思議な感懐に襲われました。
  古くからの集落の住宅地では、農業用水路はコンクリートやブロックで覆われています。ところが、住宅地から純然たる水田地帯に出て見ると、用水路は昔のように野草に覆われた土のままの土手岸で、礫や小石で覆われた川底になっています。このような川辺は、昭和前期までのあった田園風景に近い状態です。


コンクリートに覆われていない用水路


農道の傍らに立つ馬頭観音

  この水田地帯を実際に歩いてみた印象にもとづいて、借馬の金山神社の南側を流れる用水路の流れをグーグルマップでたどってみた印象では、江戸時代末から昭和前期まであった、自然にできた小川に少々人間の手を加えてできた流路がそのまま残されていると見られます。
  この水路は、木崎湖の西に位置する小熊山系の尾根筋の最南端(平地籍)から始まり、西原地籍を東向きに流れ、金山神社の西で流路をしだいに南東に向きを変えていきます。借馬公民館からおよそ300メートル南の地点までは、流路は曲りくねっています。
  用水路だけでなく、古くからあったであろう農道は多少の手直しは経ているかもしれませんが、かなり曲折が残されています。そして農道の傍らには馬頭観音が立っています。石仏のような史跡があるところは、意図的に古い姿のままで残したように見えます。
  とはいえ、借馬集落の家並みの近くでは水路はコンクリートの護岸になっています。しかし、水底は礫と小石で覆われています。このことから見えてくるのは、住宅地では建物敷地や路肩の保全を考えて河岸の浸食や崩壊を防ぐためにコンクリート護岸による補強を施してあるけれども、田野では伝統的な景観や地形、植生をできる限り残すという基準が背景にあるということです。


野草が生い茂る土手が水路を囲んでいる



支水路畔際のヒバ並木が遠近感を醸す


水田地帯には懐かしい農村風景が残っている▲

古い畔道や草地に残されている馬頭観音: 3体が並ぶ▲

礫や小石で覆われている用水路の岸や底▲

水田や堰は草地や風致樹林に取り巻かれている▲

岸辺は津市の土手で水路による圃場の浸食から保護している▲

古くからの自然のままの小川のように曲りくねる流路▲

流路曲がり角には大きな石が集まって堆積している▲

主流路から田圃に水を引く支水路はコンクリート・ブロックが施工▲

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