甲斐から野辺山を経て小諸に連絡する旧甲州道脇往還は、佐久甲州街道とも呼ばれていました。高原を往く道で、ところどころでＪＲ小海線とも並行しています。
  小海線八千穂駅から北の佐久甲州道沿いに穂積天神（旧天神町）という古い歴史をもつ街があります。この集落の街道沿いに大正時代からの古い町並みが保存されています。この街には黒澤酒造という蔵元があって、酒造りを基盤にして幅広く事業を経営し、大正時代からの風雅な街並みの保存活動を担ってきました。

◆大正時代からの懐旧の家並みを探訪◆

これも黒澤一族が保有する土蔵や家屋か

◆佐久を往く甲州道脇往還◆

  平安後期から甲斐に確固たる勢力を築いた甲斐源氏の武田家は、鎌倉時代から戦国時代にかけて甲斐と信濃の要衝を結ぶ軍道を開削・建設してきました。その軍道がもとになって江戸時代に甲府から韮崎を経て下諏訪を結ぶ甲州道（甲州街道）が整備されました。甲州道には佐久を縦断して小諸までいたる脇往還があって、佐久甲州道と呼ばれました。
  明治以降も佐久甲州道は東信地方の経済活動と物流の幹線として機能し、沿道にいくつも豊かな農村と街集落が成長しました。そのひとつが旧八千穂村穂積で、酒造を中心に南佐久の商業や養蚕・製糸などの経済活動の拠点となりました。

蔵元が保有する広壮な古民家土蔵

◆穂積天神の街と黒澤家◆

  周囲にはいまだ茅葺屋根がほとんどいう大正時代、天神町には瓦葺きの広壮な町家が旧街道沿いに軒を連ねる家並みがいち早く形成されたそうです。豪壮な商家町家の列の中心になったのは、さまざまな産業を営む黒澤一族で、銀行も保有・経営していました。
  当時は国内の経済活動のネットワークの密度が低く、通商網の目がずっと粗かったので、経済取引や金融循環の仕組みが有力な地方都市を中心として――広大な農村地域に取り巻かれながら――半ば自立して動いていたのです。地方の有力企業の影響力が今よりはるかに大きかったのです。

  江戸時代後期から商品貨幣経済の発達にともなって、借財の抵当＝質となった農耕地が流れて農村有力者（豪農・豪商）の手許への集中が進み、余剰米が酒・味噌・醤油・酢などの醸造業の原料として集積され、商工複合産業としての醸造業が発展し、農村での資本蓄積が進みました。有力地主層が地方での商工業の育成者として成長していきます。
  彼らは酒・味噌・醤油・酢などの醸造商品の流通経路を組織し、蓄えた富を基盤に地方金融の担い手（銀行家）となり、地方レヴェルでの金融循環を組織化し地場産業に投資・再投資する仕組みを育て上げました。
  八千穂穂積（天神）でも、黒澤家――黒澤酒造――が中心となって一帯の経済と文化を育て集積させていくようになりました。それは街並み景観としては、当時ではまだすこぶる珍しかった瓦葺き屋根を施した重厚・広壮な和風町家の家並みからなる集落として現れました。

中秋、紅葉が始まった古民家の家並み

◆高度経済成長と街並みの姿の変貌◆

  しかし、1950年代半ば（昭和期後半）に始まった高度経済成長は、日本全体として街の家並みの姿を組み換えていきました。急速な経済成長が終わると地方都市や農村での過疎化の人口減少が進み、空き家が目立つ街並みとか「シャッター商店街」がいたるところで目立つようになっていきました。
  そういう街並みの姿の変貌のなかで、大正時代に始まる瓦葺き和風建築の町家を維持するのは非常に手間と金がかかる面倒な事業になりました。信州の地方都市では、ごくまれに有力な企業が、堅実な経営によって潤沢な資金をもとに住民や自治体と協力提携しながら、街並み景観の保存・再形成という社会的な文化活動を担うようになったところだけが、伝統的な美しい風景を護ることが可能となりました。
  長野善光寺かいわいと松本城かいわいなど突出した観光集積地を除くと、残念ながら、現在も持続できている成功例は、北信濃の小布施と蔵の街須坂、南佐久の穂積天神くらいしかありません。小布施や須坂と比べると、穂積は非常に規模が小さいといえます。とはいえ、もっぱら黒澤家が街並みの保存活動を経済的に支えるという状況では、現在の規模が持続可能サステイナブルな適正規模なのかもしれません。

主屋と土蔵を連結するような配置の高麗門