鎌倉幕府の統治下で幕府に臣従する武士である東国の御家人たちが鎌倉に馳せ参じるための道路網を「鎌倉道」または「鎌倉街道」と呼びます。
信州の各地には「鎌倉街道」の遺構の断片があちらこちらに残されています。
しかし、ほとんどの場合、鎌倉街道の残滓ともいうべき遺構は、せいぜい長くても200メートルも歩かないうちに、田畑や草原、森林、あるいは荒蕪地のなかに消え去ってしまいます。
やはり、700年近い年月が経過した時間の重みというか破壊力を私たちはあらためて思い知ることになります。
また、鎌倉道のうち頻繁に利用された主要な経路には、その後、甲州道や東海道、東山道(中山道)などに改変・吸収・統合されていったものも数多くあるようです。
ことに15世紀から16世紀にかけての農村開拓の大規模な進展と守護大名や戦国大名による戦乱や城砦建造のための土木活動などが、日本の地表構造を大きく転換させました。さらにそれに続く江戸期時代から現在までの都市形成や農地開拓・農村建設が、古い地表構造の痕跡を取り去ってしまったようです。
それでも、山林や農村が多かった長野県には、まだしも多くの鎌倉街道の断片的な痕跡が残されたと言うべきかもしれません。
なかでも諏訪大社の門前町、下諏訪町には鎌倉街道の痕跡がかなり明確に残されています。というのも、断層崖や段丘が複合した下諏訪の傾斜地形は、つまり山裾や山腹の急斜面においては農地開拓や都邑集落の形成に不向きなところが多かったからかもしれません。
当時、鎌倉に連絡する道路をこんな峻険な傾斜地に造営したのは、おそらくこの下の段丘まで諏訪湖の水が増水・氾濫するおそれが大きかったからでしょう。それだけ、諏訪湖の湖面は巨大だったのです。
もちろん鎌倉海道は諏訪湖の水運を利用しやすい、つまり湖面に近い位置にあったはずです。、
ところが、時代が下るにつれて、諏訪湖は小さくなり、水際は後退してきました。
戦国時代には、この下の段丘斜面に甲州道の原型となる軍用路ないし交易路がつくられるようになりました。武田信玄の信濃への進出は、そういう湖畔の道を通って展開されたはずです。数世紀の間に湖面はそこまで後退していたということです。
展望台から市街と諏訪湖を見おろす▲
復元された鎌倉街道遊歩道の途中には展望台と四阿があります。ここからの展望は諏訪湖全体を眺望できる大パノラマです。
南に進むにつれて、鎌倉道が位置する傾斜はきつくなっていきます。
そして、富ヶ丘の辺りで小径は南から南東に向きを変え、やがて旧甲州街道に向かって下っていき、街道に溶け込むように消え去ってしまいます。
この辺りからは斜面の傾斜が非常にきつくなり、段丘から湖までの距離はぐっと狭まっていくのです。
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