◆宮ノ脇(西参道)を往く◆



諏訪大社上社本宮の五之鳥居: 道の先に本宮の社務所がある。右手の斜面は守屋山から続く尾根裾の斜面。

  今回は諏訪大社上社本宮の「裏手」に当たる宮ノ脇地区を歩きます。室町時代には、大熊城を中心とする茅野氏の所領だったところで、小熊という地籍だったとか。大熊地区から県道16号を南東に進み、中洲神宮寺交差点で県道から右に分かれていく旧道――西参道――を歩いてみませんか。諏訪の古い姿を偲ぶ風景に出合いますよ。



▲宮の湯近くから歩いた道を振り返る


▲高台にのぼる道から五之鳥居を見おろす


▲尾根裾斜面の高台に並ぶ家並み。敷地が棚田のように連なる。


▲波除鳥居の脇で旧道は緩やかに曲がる: 鳥居の奥が社務所だ


▲波除鳥居の前から旧道を振り返る


▲画面右端が波除鳥居: 道の先に本宮大鳥居がある

  県道50号に沿って有賀峠を下り、県道16号に入って諏訪大社上社本宮まで歩いてみませんか。江音寺から龍雲寺を経て本宮の裏手、宮の脇まで往く旧道は諏訪湖南岸の山裾を往く道で、歴史を偲ぶ景観を追いかける楽しい道です。
  今回は、中洲神宮寺交差点で旧道の細い道「西参道」に入って歩きます。少し歩くと宮の湯の前を過ぎて本宮五之鳥居をくぐることになります。


本殿背後の道祖神祠と庚申塔

  守屋山から続く尾根の裾に位置するこの旧道は、岡谷や下諏訪から諏訪湖西岸沿いに上社に詣でる参詣街道だったようです。古くはこの上の山腹斜面に前宮方面から岡谷方面に連絡する鎌倉道が通っていたと見られています。
  ということは、鎌倉時代には、この辺りは諏訪湖の水面(湖底)だったということになります。時代を下るごとに諏訪湖の水面は後退し、人びとは山腹から山裾の平坦地に降りてきて集落や農耕地を開いたということです。
  道幅が狭いので、クルマでの通行は少し不便です。本宮の駐車場に車を置いて、社務所脇を抜けて波除鳥居から西に歩いてみましょう。
  集落の共同浴場「宮の湯」は、宮ノ脇地区の風景に溶け込んだ伝統的な田舎風の温泉です。街歩きで疲れたら、ここでひと汗流せば疲れも癒せます。


伝統的な社殿風の入母屋家屋が宮ノ脇公館

  さて、五之鳥居から南東に進むと、旧道が左にゆるく曲がるところで、右手に波除鳥居と出会います。鳥居の手前には、諏訪の伝統的な入母屋造り――赤いトタン屋根――の家屋があって、それが宮ノ脇公館です。住民の集会場のようにも、本宮の施設のようにも見えます。公館の裏(南)には斜面が迫っています。
  ここは上社本宮の社務所・参集殿の裏手に当たりますが、伝統的で鄙びた景観に囲まれていて、大鳥居をくぐって本宮に入る道筋とは打って変わり、まるで別のところに来たような印象です。訪れる人もめったにいません。この山裾の急斜面にたくさんの社殿や石塔があります。

◆山裾斜面の社殿群をおとなう◆


◆秋葉社と庚申塔群◆


▲鳥居下から参道を振り返る: 左側が宮ノ脇公館と石塔群


▲並ぶ石塔は多くが庚申塔で、ほかに双体道祖神、二十三夜塔

◆本宮社務所・斎館の裏手◆


▲波除鳥居の前から旧道を振り返る


▲画面右端が波除鳥居: 道の先に本宮大鳥居がある


▲社務所や参集所の裏手にあるのは斎館と呼ばれる美しい建物
斎館とは神職が身を清め身支度する場所


▲波除鳥居脇からの社務所(通用口側)の様子

◆大国主命社と大榧木◆


▲大国主命社の社殿: 基礎部分は急斜面に合わせた造り


▲本殿は石垣の上だが、拝殿は舞台枠の上


▲2本の榧の巨樹に挟まれている。背後の榧木の樹齢は170年。


▲大国主命社の上の壇にある新村家門の氏神社祠

◆蚕玉神社◆


▲蚕玉神社の社殿。手前の木がサワラで、背後はムクノキだろうか。


▲左端が蚕玉神社。山麓に見おろすのは宮ノ脇公館


石塔群の奥にある祠は秋葉社

  公館脇から斜面をのぼっていく参道がつくられています。公刊の裏手ののぼり口右わきに石灯籠が立っていて、その後ろ側に石塔群と祠があります。石塔は小さなものを含めて7つあって、刻まれた文字を読むに、そのうち5つが庚申塔で、ひとつが双体道祖神、ひとつが二十三夜塔のようです。
  石塔群の背後に祀られた小さな祠は秋葉社で、その周りには小さな御柱が建てられています。
  これらを脇に見ながら急斜面を登っていく参道は、まもなく木製の鳥居をくぐります。鳥居があるということは、この辺りの斜面はひとまとまりの神域をなしているということになります。
  これからこの神域にある社殿をめぐってみますが、まずこの不思議な場所について説明しておきましょう。


西参道の終点に立つ波除鳥居

斎館の玄関の唐破風向拝

  ここは、守屋山から北に張り出した尾根の裾にある斜面で、諏訪大社上社のご神体である山林に取り巻かれています。上社本宮の境内の西の端で、社務所や宝物殿、参集所、斎館などの社殿群の南東側の裏手に当たります。
  西参道の終点で、本宮の大鳥居まであと100メートルという地点です。波除鳥居をくぐると上社本宮の境内に入ります。本宮への参拝の通常の順路としては、東参道から境内に入ることになっているようなので、裏手からの進入ということになりそうです。
  鳥居脇からは社務所の通用口側を見ることになります。が、社殿の造りはここから眺めても、充分美しく見えます。社務所の西側には斎館があります。斎館とは、本宮の神官たちが清めて身支度をする場所だそうです。この斎館も玄関は唐破風の向拝の軒下にあって、じつに美しい造りになっています。


名物の大榧木はご神木で樹齢370年

  急斜面の木製の鳥居をくぐって参道をのぼります。坂道参道はまず左に蛇行し、次に右に蛇行して進みます。この順路でまず出会うのが大国主命社です。
  オオクニヌシは諏訪大社の主祭神タケミナカタの父神です。したがって、諏訪大社の周囲にオオクニヌシを祀る社殿があっても不思議ではありません。とはいえ、本宮の境内のなかにもオオクニヌシを祀る社殿があります。そうすると、なぜ、どういう経緯でここに大国主命社が置かれているのか、疑問がわいてきます。
  考えられる理由としては、上社本宮の境内が社務所や参集殿、斎館などを建立するために西方向に拡張されたため、もともと本宮境内とは離れていたこの山裾斜面が、本宮社務所などに隣接してその裏手になってしまったのだろうということです。そう考えると、ここに鳥居があって独自の神域をなしているように見える理由も理解できそうです。
  この社殿のひとつ上の壇に「新村氏子一統」と彫られた石塔とともに石祠(天神社など)があります。ということは、ここにはもともと新村一族の氏神社があって、オオクニヌシの社殿も祀られていたのかもしれません。

  大国主命社の脇で右に蛇行する参道を進むと、今度は蚕玉神社に出会うことになります。
  諏訪を含む信州各地で養蚕が盛んになるのは幕末から昭和初期までです。世界市場に生糸を輸出するために1850年代から1930年頃まで養蚕業と製糸業が勃興したのです。すると、この神社の建立時期は、明治から昭和初期までのあいだということになりそうです。

  ところで、この斜面の上には墓地があります。相当に古く――江戸時代中期よりも古いか――からある墓苑のようです。ここは諏訪大社の神域でしたから、仏式ではなく神式で葬られた祖先の墓標が並んでいるのではないでしょうか。


社殿群の上にある不思議な墓苑

| >前の記事に戻る || 次の記事に進む |