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長野県諏訪市中洲宮山
 
 
廃仏運動からの生き残り  


▲国道16号から法華寺を望む: 神苑の高台に位置する法華寺の堂宇は家々の屋根の上に姿を見せている

▲鷲峰山法華寺の山門:朱塗りの重厚な楼門

  諏訪大社上社本宮の東参道門に南東側に隣接している法華寺は、創建の時期はわかりませんが、もともとは天台宗の寺院でした。幕末まで上社の別当寺として神宮寺という大規模な寺院がありましたが、明治維新の廃仏毀釈政策によって破却され、今では法華寺だけが残されています。神宮寺の支院あるは塔頭だったと見られます。


▲画面左端が本堂、中央が山門、奥に庫裏、居住棟がある。

  諏訪大社上社本宮の東参道門脇に「明治維新前の諏訪大社上社と神宮寺」の絵図が掲げられていて、幕末までの神宮寺の様子が復元図となっています。
  数多くの塔頭院坊が参道両脇に並んでいて、五重塔などの七堂伽藍があったようです。

■神宮寺の面影を偲ぶ■


▲往時、この通りは神宮寺の参道だった

  神宮寺は平安時代の創建だと伝えられていますが、その年代はわかりません。諏訪大社上社は守屋山をご神体としていますから、天台宗の修験場だったのかもしれません。神宮寺の一部をなしていた法華寺は、鎌倉時代に臨済宗の禅寺となったそうです。
  今では、法華寺境内の南側の斜面に、かつて存在した神宮寺の堂塔伽藍の跡地――棚田のような檀――があるだけです。その神宮寺跡に立つ説明板には、こう書かれています。


▲五重塔跡の説明板

▲鐘楼跡と普賢堂跡の立札

  神宮寺とは、平安時代から始まった神仏混淆のあらわれとして神社の付属しておかれた寺院のことで、諏訪大社上社については、上社境内から南側一帯の丘陵地にあった宮寺関係全体の総称だということです。
  そこには中核的な寺院として如法院(上ノ坊)と蓮池院(下ノ院)があって、これらに付属する8つの院坊があったそうです。
  その境内には、普賢堂、五重塔、鐘楼、釈迦堂、薬師堂、不動堂、上り仁王門、下り仁王門などの堂塔伽藍が林立していたようです。これらは明治心の廃仏太政官令によって破却されてしまいました。もし今残っていたら、どれほど荘厳な景観だったことでしょう。


▲この丘陵の各段に堂宇があった

▲下り仁王門から墨縄神社への参道


法華寺境内からの八ケ岳の眺め

楼門の軒下に「鷲峰山」という山号扁額

法華寺の本堂:まだ新しい▲▼



境内の様子

山桜の左が五重塔跡

この通りの両側に院坊が並んでいた

下り仁王門跡
本宮の東参道が神宮寺院坊がならぶ参道で、法華寺山門の下辺りに上り仁王門があって、斜面壇上の堂塔伽藍に参詣し、これらを一巡りしてから、下り仁王門に向かって斜面を下ったらしい。

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◆神宮寺下り仁王門跡 Googleマップ◆

 
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