諏訪大社上社と糸魚川=静岡構造線
上掲の絵地図は、太古に東西に分裂していた造山活動による隆起で本州が連結したのち、糸魚川=静岡構造線に沿って大きな地殻変動があって、諏訪湖西岸から南岸にかけて大きな断層崖が形成されたときの地形想像図です。
画面下方の低地で諏訪湖に流れ込んでいる川は宮川となる河川の始原の姿です。
この絵図が示すように、諏訪大社上社本宮と前宮は、ともに糸魚川=静岡構造線の断層崖の上に位置しています。一方、諏訪湖の北岸では、下社春宮と秋宮がやはり中央構造線の断層崖の縁に位置しているのです。2本の構造線は諏訪湖の北で交差しています。
どの社も巨大な地溝断層崖の縁につくられているのです。
いずれの位置でも、その後背地に高い山岳があって、神社の脇まで尾根稜線が伸びてきています。そして、稜線の間に位置する谷間は、傾斜が急ながらも、人びとが接近しやすい扇状地(複合扇状地)をなしています。
その複合的な扇状地形は、断層崖に直交する何本もの地割れ線に沿って流れ下る河川の浸食・運搬・堆積作用によって形成されたものです。湖岸から見ると、諏訪大神が祀られた社は段丘や丘陵の上に位置しています。
そして、人びとが暮らす集落群は、神がいる山岳から流れ下ってきた水流(神水)に恵まれ、農耕や生活のための用水を容易に手に入れられる扇状地扇端または扇状地段丘下につくられています。つまり、伏流水が湧き出てくる場所とか沢や川が流れているところです。
縄文時代の後期ないし弥生時代に山間部から湖岸近くに季節ごとに下りてきて生活するようになった、または定住し始めた人びとにとって、4つの神社がある一帯の地形はどのように見えたでしょうか。
断層崖または段丘の上――つまり高台――にあって、灌漑用水や生活用水が手に入る場所で、その奥には尾根続きで高い山岳の峰が神々しく聳えたって見える、そういう場所だったのではないでしょうか。
そして近くには湖面や湖面に流れ込む河川が何筋もあるので、春から秋には湖畔の湿地帯を開墾して水田稲作ができる肥沃な場所です。さらに後背地は山地・山岳で山林の植物(木の実や山菜など)や小動物の肉が容易に獲得できるところです。湖や河川には魚類や甲殻類、季節によって北あるいは南から渡り鳥がやって来ます。
そういうしだいで、諏訪湖の近隣には縄文時代、弥生時代、古墳時代から鎌倉時代以降まで無数の遺構群、遺跡群が発見されています。そして、地元の諏訪大社に関係する祭事では、始原的な宗教文化の上に征服者としてのモリヤ神が取って代わって支配的になり、さらにモリヤ神はタテミナカタ(夫妻)神に支配的地位を譲るという流れの物語が演じられます。
前の時代の支配者・征服者は滅ぼされるのではなく、序列をひとつ下げてその文化は基層に保たれるのです。長い歴史が重層的に重なっているという歴史物語です。