◆大鳥居から御室社、鶏冠社まで◆



▲境内参道入り口の大鳥居: 正面の急斜面は断層崖


▲女神を祀る溝上社 藤の老巨木などに囲まれてひっそり


▲以前は沼と湿地だったが、今は水源が絶たれてただの窪地となった


▲急斜面は断層崖。そこに立つ大ケヤキの根方に残る御手祓い道跡


▲二の鳥居前(東側)の様子: ここに大祝氏の居館があったという


▲二の鳥居はこの段丘の一番奥に位置する。鳥居の後ろにはさらに段丘があって、そこに十間廊と内御玉殿が並んでいる。


▲石段をのると、左が十間廊で、右が内御玉殿


▲十間廊の北側庇の下で: 右手に舞殿としての高御子屋があった


▲内御玉殿の背後の大ケヤキ: 樹齢は300年ほどらしい▼


▲前宮交流センター広場の池越しに大ケヤキを眺める


▲巨樹に守られている御室社


▲石畳参道脇の石仏: 天保3年と刻まれている

  諏訪大神よりも古い神殿が創建された時代には、諏訪湖の水面は大鳥居のすぐ近くまで、ある位は大鳥居の少し上までおよんでいたものと考えられます。「前宮」とは、諏訪大社上社(本宮)よりも以前にあった古い神社という意味があるのだそうです。中世には、神の後裔でもある大祝家の居館(神殿ごうどのと呼ばれる城館)は宗教施設と一体となっていて、この地方では統治の中心だったと伝えられています。神域と居館が一体化していたとすると、前宮の本来の境内は集落と融合していて、今よりもずっと広大だったはずです。
  現在、大鳥居の東側は店舗・住宅地になっていますが、江戸時代までは前宮の境内神域だったようです。
  さて、大鳥居の西側(右手)には叢林が広がっていますが、その窪地の縁の一角に溝上社の小さな石祠があります。祭神はコシヌナカワヒメという女神で、タケミナカタの母神です。大祝氏が家臣・従者を引き連れて八ケ岳南麓の狩場である御射山――軍事調練としての狩猟――に向かうさいには、最初にこの女神に参拝したと言われています。
  溝上社の石祠は前宮本殿の方向を向いています。かつては窪地は沼で、石祠は沼の畔にありました。水眼すいがの清水が窪地に流れ込んでいたのですが、今は水路が絶たれて窪地だけが残っています。その窪地には榊が繁茂しています。


溝上社の小さな石祠

叢林の要をなすサワラの巨木群

大鳥居をくぐると段丘の上に二ノ鳥居が見えてくる

  大鳥居の手前から続く石畳が終わる辺りから急斜面となります。この段丘崖をのぼる細い石段の中ほど辺りから上が大祝氏の居館の跡地だそうです。館の主屋の敷地は、二の鳥居の前の壇上にあって、現在の社務所から十間廊の手前まであったようです。⇒参考絵地図
  大祝氏の居館跡の説明立札と石段脇の大ケヤキを結ぶように参道を横切っているのが、御手祓い道の跡だそうです。中世の頃、酉の祭のさい、馬に乗った稚児を先頭とする行列が、この道を通り、大祝家の言祝ぎを受けたそうです。これも豊穣を祈願する祭事だったとか。


上の段丘から二の鳥居を振り返る

十間廊の背後にある高御子屋(神子屋)跡

  十間廊と内御玉殿の間の参道を過ぎるとまたもや石段に出合います。石段が導く先は、前宮の境内で一番高い段丘の斜面となっています。ここから上の参道には石段はなく、ここからは本殿まで山腹斜面の参道を120メートルほど歩くことになります。
  石段をのぼり切った右手(西側)に根元近くから幹別れした大ケヤキが立っています。樹齢は300年ほどだそうです。
  参道から見てケヤキの裏側の根方には御室社という石祠が祀られています。御室とはその昔、祈祷神事のために浅く掘られた穴のなかに設けられた参籠所で、冬至に掘られて、春分前に埋め戻されたました。そこでは、中世までは諏訪大社の神官団が、籠り日ごとに蛇の冬眠を真似て巣ごもり――「穴巣始め」と呼ばれた――をしたそうです。蛇は肥沃と豊穣の象徴なので、この蛇巣ごもりの祈禱によって豊作を祈願したのでしょう。
  この祭事の伝統は中世末には失われたようですが、過去の行事を尊崇・記念して石祠が建立されたようです。


前宮本殿への参道で最上部の石段とケヤキの巨樹

大ケヤキの根方に安置された御室社の石祠




▲諏訪頼重供養塔脇の小径を右(西)に進む


▲鶏冠社の祠: 大祝の職位に就任するときの儀式がおこなわれた社


▲祠の前から前宮境内を見おろす: 中央の建物は社務所

  御室社の下で参道を横切る小径は子安社の方に下っていきます。歩き始めてすぐに諏訪照雲頼重の供養塔(蓋屋付き)に出合います。その脇の小径を右に進むと、鶏冠社の祠が祀られています。
  鶏冠社は本来、大祝おおほうり家門の裔が――自ら神でもあり神と人間との仲立ちをする地位――大祝の職位を継承就任するときの儀式――鶏の頭に似た冠を被って舞う儀典――をおこなう神聖な場だったそうです。したがって、歴史的には前宮で最も重要な場なのですが、今は小さな祠があるだけです。儀式がおこなわれなくなって久しいからでしょうか。


祠の両脇に2基の小さな石灯籠が脇侍している

  私が訪れたときは、まだ冬の気配をとどめる初春で気温が7℃。祠の背後には冬枯れの樹木が立っていました。樹種はサカキとヒイラギとカエデだそうです。
  この社はその昔、「柊の宮」「楓の宮」などと呼ばれていたとか。大祝職位の就任式典では、雅楽が奏でられ、参集者は古式ゆかしい装束や飾冠をまとっていたと伝えられています。

前の記事に戻る || 続きを見る(次の記事に進む) |