往古、千曲川右岸(東岸)では松代道福島宿よりも北は全体として低湿地帯だったと見られます。水田などの農耕地の開拓が本格的に始まったのは、室町時代の後期以降(16世紀半ば)だったようです。 農民が集住する集落の形成が進展する契機は、武田信玄の北信濃への侵攻だったようです。進軍に備えて、相之島を拠点に農村開拓を試みたものと見られます。


◆戦国時代に相之島が開拓の拠点となったか◆



千曲川の堤防上から相之島集落を見渡す。彼方には志賀高原や雁田山などの山並みが続く。



▲河東相嶋神社の大鳥居と境内。社号は幕末までは諏訪大社だった。


▲相嶋神社の拝殿と沈設する源信寺本堂


▲この小路はかつて村の中心部を往く道だったようだ


▲源信寺の東脇を南に向かう小路


▲相嶋神社と源信寺の前(南側)を往く小路と家並み


▲県道343号沿いの広壮な古民家。養蚕向けの総二階造りだ。
この県道は、最も川寄の谷街道の往還だった。


▲回収した土蔵と長屋門。県道は谷街道の脇往還だった。


▲集落の中心部の名望家の屋敷を取り巻く土蔵の列


▲漆喰土蔵と長屋門は村の豊かさを物語る


▲北から集落に入っていく農道沿いに並ぶ土蔵の列


▲農道は神社と寺の裏手に連絡する

■低湿地帯に浮かぶ相之島■

  往古、千曲川の本流または主流は、相之島集落から東に1キロメートルほど離れた小河原を流れていました。長沼と相之島の間を流れる千曲川分流は、季節によっては兵隊が渡渉できるくらいに流水量が減る場合もあったと考えられます。とすると、武田家と上杉家とがぶつかる最前線は千曲川西岸だけでなく相之島を含めた東岸ならびに高井地方にもおよんでいたはずです。
  地元の古老に聞くと、昭和30年代まで千曲川が増水氾濫すると、千曲川東岸全域は小河原まで水に沈むけれども、相之島地区は沈まなかったということです。室町後期から戦国時代にかけては、さらに高低差が大きかったと見られます。

  武田家の前進拠点だった対岸の長沼城は、現在の堤防の内側の構造についてはほんのわずかしか調査がおこなわれていません。堤防の外側は調査研究が進んでいて、城砦の構えは北西ないし北側からの上杉勢の攻撃に備えたものであると見られています。ところが、往時の千曲川の流路地形を考えると、相之島方面からの攻撃にも備えた構えがあったのではないかと想像できます。
  してみると、武田家側の戦略からすると、千曲川東岸の湿地帯に浮かぶ高地である相之島は非常に重要な兵站拠点とする必要があったはずです。上杉家側に先駆けて、この地を確保しなければならなかったでしょう。
  つまり、ここに拠点となる農村を開拓し農民を入植・開墾させ、さらに陣営を築くことが必要だったはずです。


リンゴを中心にした果樹栽培が盛んだった。
果樹で財を成して建てた土蔵の列が集落の特色だ。

■集落のつくりを観察する■

  この数年間、水害後の長沼の探索をきっかけに北国街道松代道の歴史を追いかけることになり、福島宿を探訪し、その後背地となっている中島集落と村山集落、そして相之島を取材してきました。そのなかで、現在まで残されている往古の「村落のつくり」から、千曲川東岸にある福島以北の農村地帯の開拓の出発点が、どうやら相之島にあるらしいことに気がつきました。
  言い換えれば、この一帯での戦国時代辺りからの水田と集落の開拓の歴史を物語る痕跡が、とくに相之島の集落の構造に色濃く残されているということです。
  有力な宿駅だった福島は東岸では大きな都邑でしたが、戦国末期から江戸初期にかけてこの辺りを統治した上杉家や徳川家、さらに松代藩による街道宿駅として福島の街づくり政策が大きく作用したため、16世紀半ば頃の集落どくりの痕跡はすっかりつくり変えられたようです。
  というわけで、相之島集落のつくりを観察することで、その頃、武田家によって始まられた惣村集落建設の歴史を探ってみましょう。
  相之島集落の何よりの特徴は、集落の中心部に諏訪大社(現在の河東相嶋神社)と禅刹源信寺、観音堂、武田家の霊廟が置かれていて、統治の文化の中核だったことが明らかであることです。してみると、今でもそこに屋敷地を構える市村家や土屋家などが、農村開拓と集落建設を差配する指導者として武田家から派遣され郷士となり、やがて相之島の名望家・大地主として村落の行財政を掌握してきたであろうことが見て取れます。
  さて、相之島に家臣の一族――市村家や土屋家など――を開拓の指導者として派遣する少し前(1540年代)、武田信玄は、先代の時代にすでに縁戚関係を取り結び同盟をなした諏訪家と諏訪湖一帯を征圧・攻略しました。も諏訪大社を司る(神官兼領主)一族を家臣団に取り込みました。すで佐久地方を上田小県方面への橋頭保として確保していました。こうして、東信地方方を抑えた後に北信濃へ攻勢をかける準備が整ったわけです。

  開拓を導く武士たちは、村で標高が一番高い微高地に自らの屋敷を構えると当時に、諏訪社と禅寺源信寺を創建して開拓の拠点としたようです。諏訪大社の神官団家門は、すでに武田家の指揮下にあったので、諏訪社の勧請や分霊、神官の配置は意のままだったでしょう。
  源信寺は海厳寺である武田家が庇護し帰依する寺院から有能な僧侶を抜擢したのでしょう。寺号にある源信は、平安時代の天台宗の高僧、源信ではなく、甲斐源氏の先祖を奉じたものと推測されます。
  武田家は以下の最有力の宗教勢力を相之島に勧請創建して、信仰の拠点を築き、従来からつき従う開拓民集団に加えて近隣の農村から新たな開拓農民を呼び集めたのではないでしょうか。


土屋家と市村家の間を通る小径

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