江戸時代、幕藩体制のもとで相之島村は天領(幕府直轄領)と松代藩領とに分かれていました。 村中の各田畑ごとに天領に属すため幕府代官所に年貢を納めなければならない区画と、松代藩領に属すため藩に年貢を納める区画に分かれていたのです。さらに、千曲川の流路が大きく変わるたびに西隣の長沼の村々と境界線をめぐって争っていました。


◆天領と松代藩領が入り混じる村の境界争い◆


■モザイク模様の天領と松代藩領■

  徳川幕府の統治体制は、日本列島が250以上にのぼる藩領国に分立している分散的な権力構造を前提していました。つまり中央集権的な国家はなく、藩主である領主たちが徳川家(幕府)への臣従するのと引き換えに藩領を授封され、統治する権限を与えられるという封建契約によって秩序が編成されていました。
  江戸時代には「ひとまとまりの国家の領土」という制度はなく、存在したのは各領主が統治する所領(領地)の集合でした。徳川幕府は最大の領主でおよそ600~800万石の領地を統治していましたが、日本列島全体で2000~2500万石ほどの領地があったと見られています。近代国家のように、徳川幕府は日本の全土に主権をおよぼしていたわけではありません。
  最上級の領主である徳川将軍家の支配権がおよぶ幕府直轄の所領は天領と呼ばれました。天領は日本列島の各地に飛び地として分散していました。最高の権力者でも一続き(ひとまとまり)になった領地はなかったのです。
  同じように、各藩の領主の支配地である所領にも多くの場合、飛び地があって、藩領はひとまとまりになっていませんでした。

  このような分散的な権力関係が典型的に現れるのが、相之島村のように天領と地方藩領とがモザイク模様に入り乱れている地方です。
  つまり、同じ村落のなかでこの耕作地は天領に属しているが、隣の耕作地は松代藩領に属している、しかも同じ農家の田畑のなかでもこの区画は天領だが、隣の区画は松代藩領になっているというような仕組みになっていました。
  では、こういう場合に年貢の納め方はどうなっていたのでしょうか。
  ほとんどは、農民の自治共同体としての村がひとまとめにして、幕府や藩主に対して年貢として定められた量の農産物(年貢)を納めるようになっていました。これを村請と呼びます。


  名主・庄屋を筆頭とする村役人たちは、各住民に年貢を割り当て徴収することになっていました。田畑ごとに平均的な生産性を算定し、区画面積に応じて比例配分して年貢高を定めていました。

■増水氾濫のたびに変わる村境■

  往時は、千曲川が相之島と対岸の長沼各村との境界線となっていました。千曲川は暴れ川で、大きな増水氾濫のたびに流路(河道)が変わりました。すると、田畑の所属先の村が変わってしまいます。
  こういう場合、河道の変化によって田畑の面積を削られてしまった村は、面積が増えた村に対して、田畑の返還というか村境の変更を要求することになります。相手の村は、たいていその要求を拒むことになりました。
  さて、1688年に長沼藩佐久間家が廃止されてから、長沼の諸村は天領となりました。一方、相之島には天領と松代藩領の両方がありました。長沼側は坂城中之条の代官所が支配していて、相之島は中野の高井代官所と松代藩の郡奉行が支配していました。
  こうなると、それぞれに領主と利害が異なっていて、村境の変更をめぐる協議はまとまるわけはありません。結局、最高法廷としての江戸の幕府評定所で訴訟(裁判)がおこなわれることになりました。
  訴訟は何か月、いや何年にもおよぶ場合が普通でした。相之島村も長沼側も村の代表を長期にわたって江戸に派遣することになり、大きな費用がかかりました。
  それぞれの代官所や藩も年貢の取り分がかかっているので、そういう費用を年貢から差し引くなどの配慮をして、支配下の村を支援したようです。
  そういう村境の変更をめぐる訴訟の史料が今でも残されています。

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