東福寺小森南部の千曲川河川敷には、「石土手」と呼ばれる古い千曲川分流の河床・護岸の石組遺構が残されています。 遺構の規模は、往古、上流にダムがなかったことを考えると、この治水設備は規模がきわめて限られているので、分流のひとつの流れを誘導しただけのものにすぎないようです。しかし、1750年代までは、この辺りで千曲川は急角度の蛇行をしていたので、洪水の破壊力を減殺するうえでは大きな役割をもっていたと見られます。


◆往古の千曲川の河道(流路)を推測する◆



▲小森地区南部の千曲川河川敷に残る「石土手」と古い河道の遺構

▲往古の千曲川河道と小森の石土手の復元推定絵図



▲河岸から上流を眺める。画面中央は土口――背後は冠着山――で、右側が横田。


▲往古の分流河道に沿って残る石組堤防遺構


▲石組護岸と河道の跡は東から東南東向きへと湾曲している


▲河道跡の窪地の高低差は2メートル前後


▲この位置からの眺めで河道の蛇行具合がわかる


▲この石組堤防と河道が使われなくなって270年くらい経過した


▲浸食・堆積などの風化で窪地の高低差が小さくなっている


▲千曲川の流水によって石組堤防遺構は下流方向に動いてきたようだ


▲古い石組堤防跡が崩れて河床を浅くし、滝のような落差をもたらしている

 崩れた石土手跡の石の並びからわかるように、18世紀半ばまでの千曲川の主流は、石土手の辺りから急角度で大きく蛇行して南東方向に流れ、妻女山の麓の清野まで達していた。松代藩による流路改造の後には、この急激な蛇行にともなう水害はほぼなくなったので、石土手の役目は終わることになった。
 古代から中世前期までは、犀川の最有力の分流が、この石土手のすぐ北まで押し寄せて千曲川の流れを押し返していた――これによって千曲川は妻女山の麓まで押されることになった――と見られます。
⇒参考記事


▲河床に残る崩れた石組跡が瀬滝をつくり水面に起伏をもたらしている


■往古の分流河道の治水設備■

  「鎌倉時代~江戸時代初期の千曲川水系」という記事では、12世紀から18世紀半ばまでの千曲川の推定流路を示しました。往古の千曲川の主流は、現在の岩野橋辺りで北向きになり小森の手前で急角度で蛇行して南東向きに転じ、そのまま妻女山の北麓まで流れ、今度はそこで北東向きに流路を蛇行させ、杵淵・寺尾に流れ下っていました。
  東福寺での千曲川のこのようなV字形ともU字形とも言える急激な流路の転換で、流水の力の攻撃力の正面は小森地区に向かっていました。したがって、堤防がなかった時代には大雨などで増水すると、小森から東福寺にかけての区域に向かって水が押し寄せ、田畑や集落を押し流し破壊することになっていました。
  1730~50年代に頻発した千曲川の洪水と破壊を経験した松代藩は、このような氾濫を引き起こしやすい河道(流路)を改造する大工事を進めることになりました。この大瀬直し工事の結果、千曲川はほぼ現在の流路となりました。


白波を立てている瀬が往古の河道の痕跡

■往古の流路を推定する■

  上の写真の中央部で、白波を立てている瀬が1750年代までの千曲川の河道の痕跡です。流路の変更(瀬直し)の後の水流によって、かつての石組堤防跡が崩れて石が少し下流に押し流されて、高低差をつくっています。
  崩れた石組跡によってここには高低差が目立つ瀬ができました。今から30年以上も前まで、東福寺の古老たちは「小森の滝」と呼んでいました。つまり、小森の石土手は、いくつもあった千曲川の分流のうち、急角度で蛇行するため洪水を起こしやすかったものを、石土手で護岸し流れを誘導して、より円滑に流路を東に向け、さらに南東方向に変えて、滑らかに妻女山の麓(清野村)に向かうようにしていたのです。
  おそらく地球的規模での気候変動のなかで、1730年頃から増水の頻度が増してきて、ついに1742年の「戌の満水」――深刻な豪雨で信州各地に大水害をもたらした――で千曲川の流路は目まぐるしく変わり、氾濫にともなう水害の規模が耐えがたい――村落の存続がかかる――ほど深刻になっていったものと見られます。
  小森の石土手の構築は、これに対応する治水事業だったと見られます。これは、流路を変える瀬替えや瀬直しではなく、増水のたびに経路を変えるこの分流の蛇行流路を固定し、自然にできた流れを石土手で促進し、増水した流水を東から南東に円滑に誘導するためのものでした。つまり、古い河道の遺構なのです。


現在の流路は、1750年代の瀬直し
による新河道を保っている

■千曲=犀川水系の大改造工事■

  とはいえ、1750年代になると、この石土手の効果がなくなるほどに流路が変わり、小森や東福寺を含む川中島一帯に深甚な水害がもたらされるようになったため、松代藩が「小森の大曲り」から杵淵、寺尾までを改造して、主流がほぼ現在の河道になるように大規模な瀬直し工事をおこなうことになりました。
  ところで、この水系の大転換事業には「前史」があります。
  関ケ原の戦いで徳川家が覇権を握り、1603年に征夷大将軍となった家康は、6男の松平忠輝を越後高田領と北信濃領(埴科郡、更科郡、水内郡、高井郡)の領主として統治させることになりました。
  これらの地域は、佐渡金山で採掘された金を江戸に運ぶための北国街道を開削したり、最重要の軍事的要衝をなす中山道と北国街道を連絡する往還建設をおこなううえで、戦略的に最も重要なところでした。北国街道は、福井や加賀の大藩雄藩の藩侯や高官が江戸と行き来するための経路なので、幕藩体制を固めるうえでも、北信濃はきわめて重要でした。
  ということで、幕府は松平忠輝の靡下に、大久保長安をはじめとする軍事や土木建築、財政の実務に長けた有力有能な武将たちを副官として配して、越後と北信濃の統治レジームの構築をおこなわせました。そういう課題の一環として、犀川を含む千曲川水系の改造(治山治水)も含まれていました。1603~1616年まで、断続的に進められた千曲川=犀川水系の河川改修・流路変更などの大工事は、忠輝靡下で松代城代に任じられた花井吉成が指導したそうです。
  1603年、花井吉成は犀川の支流、裾花川の瀬替え工事(流路改造工事)に着手しました。それまで、裾花川は善光寺平にいたるや、善光寺下から七瀬、高田を経由して、長池・屋島方面に流れ下って千曲川に合流していました。七瀬という地名は、裾花川が善光寺の南側で蛇行を繰り返して7か所の瀬をなしていたためつけられたそうです。それを、現在のように朝日山山麓から丹波島に向けて南流する河道に改造したのです。それはまた、裾花川の旧流路を農業用水路のネットワークに組み換えて、将来、大規模な水田開発に結びつけるという展望にもとづいていたようです。
  また、数えきれないほどあったあった犀川の分流路をできるだけまとめて、一筋の本流に改造する工事も進めました。⇒参考記事
  犀川の流路改修には、小田切辺りから川中島方面に流れる小河川の水口(分水門)の改造と流路の改修も含まれていましたが、それ以降の用水路の開削にまではいたらなかったようです。というのは、犀川からの膨大な流水量を管理する水路開削が困難で、さらに千曲川自体の河道を変えない限り、川中島の南から東側が広大な湿地帯であり続けるしかないからです。
  そして最大の課題は、平常でも犀川は千曲川の10~20倍以上の流水量を抱えていて、増水時にそこから溢れた膨大な流水を川中島でどのように分散し、千曲川に誘導するか、ということでした。

  このような残された課題を完遂したのは、松代藩に移封された真田家でした。真田家は1640年頃から犀川や裾花川の瀬替え工事と用水路開削をさらに進めました、そして、18世紀半ばには、千曲川河道の大改造を進めながら、犀川から千曲川に流れ込んでいた数百筋の小河川群を農業用水路網に造りかえたのです。
  小森の石土手は、すでに述べたように、この瀬直し工事の前の千曲川の有力な分流の流路を補強し、洪水被害を減らす対策でした。ところが、南東方向への急激な蛇行をなくして、小森から杵淵に滑らかに流れる河道に改造したのちには、役目を終えることになりました。

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