創建時の信濃国分寺のイメージ

天平の創建時の信濃国分寺の建物群の復元イメージは、左の画像のようなものだったらしい(模型:上田市の信濃国分寺資料館所蔵)。
平城京にある総国分寺、東大寺を模して、大和王権が抱える建築専門家を派遣して、建造されたことが、古代の記録で確認されている。

正面から見て金堂と講堂の右前(中門の右横)には「七重塔」が創設された。手前が僧寺で奥が尼寺。
上田は、大和王権が各地方を統制するために設置した王権の出先機関=国府の所在地だった。それゆえ、ここにこれほど大規模な国分寺が建立された。

ところが、10世紀半ばまでには、大和王権と平将門との覇権争い=戦乱・火災のなかで、この国分寺は完全に消滅してしまったという。

ところが、12世紀の終り(鎌倉時代のはじめ)頃 から、近隣の住民たち自身の手による国分寺再建の動きが始まったという。上田盆地は、先進的な灌漑施設をともなう肥沃な穀倉地帯となり、繊維などの特産工芸品の生産も発展して、豊かになっていたからだろう。
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