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長野県木曽郡大桑村
 
  須原宿の最も古い街並みは、関ケ原の戦いの翌年に建設が始まったものでした。しかし、江戸初期に発足したその街並みは1715年の木曾川氾濫による大水害で壊滅し、現在残されている宿場街はひとつ上の河岸段丘上に移して再建されたものです。 街並みのなかには今でも江戸時代からの古民家がいくつも残されています。
  写真は宿場の西端の風景で、画面左端に桝形があったそうです。

 
高台丘陵の宿場街


JR線路の上の丘からの須原宿の家並み:木曾川との標高差は60m以上

  野尻方面から中山道を辿ってきて須原宿に到達して感じるのは、この宿場街は木曾川の河床からずい分標高差がある高台に位置しているな、ということです。
  じつは江戸時代の初期に建設された初期の須原宿は、現在の河岸段丘のひとつ下の段丘に位置していたそうです。ところが1715年(正徳5年)に発生した木曾川の大氾濫で古町にあった宿場街は壊滅してしまったのです。
  豪雨があったのが直接の原因ですが、木曾川の流路の地形――木曾川の蛇行――が次に大きな原因だったと見られます。須原の直前で木曾川の流路が南東方向から西方向に45°以上も曲ることで、溢水の破壊力が50メートルほども高低差のある河岸段丘の上まで達してしまったようです。
  上の写真は、JR中央西線の上の小さな神社がある斜面から須原宿西端の街並みを写したものです。大きな高低差の河岸段丘が連なる河畔の斜面の勾配(高低差)が大きすぎて、谷底を流れる木曾川の水面はまったく見えません。そのくらいに須原宿がある段丘は高い位置にあるのです。
  以下の須原宿の街並みの探索と解説にあたっては、『大桑村史』付録の家並み絵図(吉村義男氏所蔵)を参考にしています。

■氾濫水害後に再建された宿場街■

■集落の起源は室町後期■

  大桑村の木曾川河畔――殿村、長野村、野尻村など――には、鎌倉時代には小領主が開拓を指導する集落が生まれたそうです。木曾川の流路が大きく曲がる須原では増水氾濫による水害が頻繁だったので、本格的な農耕地と村落の開拓が見られるようになったのは、室町中期頃だと見られます。
  言い伝えによると、1530~1560年(天文・弘治年間)に、現在の宿場よりも下の河岸段丘上――古町と呼ばれる――に須原の集落が形成されていたようです。集落は戦国時代末期にかけて成長発展し、1601年に徳川幕府の道中奉行の命によって須原宿が発足しました。


東南東に向かう旧中山道


両側に樹林が迫っていて、懐旧の想いが湧く小径

■1715年の水害で壊滅し再建された■

  ところが、1715年、豪雨の後で木曾川が氾濫し、古町にあった旧い須原宿の街並みを押し流してしまったそうです。その後、もうひとつ上の段丘――富岡と呼ばれていた高台――に新たに宿場街を建設することで再建したということです。
  現在の須原宿の街並みは、木曾川の河床から――水位・水量にもよりますが――標高差にして65メートル高く、水平距離にして350メートル離れています。非常に傾斜のきつい河岸斜面となっていることになります。

■旧中山道を通って須原宿に入る■

  ところが、橋場から長坂を下って宿場に入るまでの中山道の道筋は、1715年の氾濫の前とさほど変わっていないように見えます。宿場街が古町にあったときの経路と変わっていなように見えます。
  今回の旅では、定勝寺の境内北端の石垣の下を通る県道265号ではなく、江戸時代の中山道を通って矢洞沢まで進み、沢に沿って南に曲がって、桝形跡を抜けて須原宿に入ることにします。


旧中山道の道幅もこのくらいだったか


定勝寺の東脇から矢洞沢の下流、桝形跡を眺める

  旧中山道は、長坂を降り切って県道の最も低いところで左折して東南東の方向に転じます。
  旧街道の両側には、かつてはもう少し賑やかに家並みがあったようですが、過疎化が進んで今は民家はまばらです。家屋の跡地は草原になっていて、そこに現代風の造りの住居が点在しています。
  旧街道は200メートルほど直進していったんは国道19号に近づき、そこで東南東に曲がり、渓流矢洞沢に出会うとそこでほぼ真南に方向を変えます。この曲がり角は二股になっていて、左に進むと旧古町にいたります。往古、この分岐点に桝形があったと見られます。
  私たちは沢に沿って南に進み、定勝寺の境内北端の石垣の下を往く県道265号に合流します。ここが宿駅の左端で、そこで直角に左折して須原宿に入っていくことになります。この曲がり角も桝形の跡だと見られます。こちらは急傾斜の段差(高低差)を利用した桝形です。
  ところで定勝寺の石垣の下(北側)を通っている県道は、江戸時代には寺小路と呼ばれる、ずい分細い道だったようです。この小路は須原宿の街通りである中山道に筋違いで接続していました。現在、石垣の下でバスの停車スペースとなってる路側帯は、明治鉱から昭和期にかけて拡幅された部分だと見られます。


県道左脇の土の地面が寺小路の跡だと見られる

  上の写真で、舗装された県道部分には、寺下の町家家並みがあったそうです。舗装道路の左脇のむき出しの地面の辺りに、中山道の脇道として寺小路があったのです。


場が坂を下りきって県道265号から左折し、東に向かう小径が中山道▲


この先も曲りから古町と呼ばれる街区だったか▲


曲がって道は南南東に向かう。左端の溝は用水路。▲


左は旧古町に向かう。右が矢洞沢に沿って南に向かう旧街道。▲
桝形は二段階になっていて、ここと県道脇の2か所にあったらしい


矢洞沢を遡る中山道。定勝寺の境内北端の下の県道に出る▲


急斜面の段差を利用した桝形だったと見られる。上の道は県道。▲


ここで街道は直角に曲がって須原宿に入っていった

西端の桝形跡から始まる須原宿の街並み。矢洞沢が西の境界線だ。▲


街道の南側、矢洞沢の畔の屋敷、土蔵までが敷地で奥行きが深い。▲

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