宗龍寺の前身の寺院は1440年代に開創されたそうです。火災で焼失した後、16世紀末から17世紀はじめにかけて、禅刹として再興再建されたものの、再度火災に見舞われ、現在地に移転再建されました。
  御岳山の尾根裾から山道参道をのぼって本堂まで参詣すると、斜面に拓かれた砦の段郭をめぐるような経路地形だと気がつきます。ここは、山城だったと見られています。


◆城砦のような構えの寺域を擁する禅刹◆

 
本堂の東側の段郭の端は苔むした庭園の一角に初夏の陽射しが落ちる



▲道路改修で切岸のような登り口がさらにきつくなった


▲段郭のような平坦地に拓いた扇型の池がつくられている


▲池を右手に見おろしながら参道をのぼる


▲ここでV字形に折り返して石段。桝形の基本形のひとつ。


▲棚田が連なる形の段郭(切岸)が続いて山門に近づく
 ここは桝形虎口跡らしい、帰りに上から眺めることにする。


▲参道は大手道の跡を利用したのか、尾根の端を往く


▲初夏の強い陽射しが木漏れ日となって柔らかく参道に落ちる


▲広壮だが端正さを感じる本堂。往古、ここが主郭だったか


▲石製の脚を土台とする鐘楼


▲カエデの老木は丸子の名物だそうだ


▲参道石段の途中にある桝形跡。石垣を小さくしてある。


山城の大手道のような参道=登山道


沢を段郭に引き堤を築いて扇子池をつくった

  涌泉山宗龍寺の山門前の説明板には、あらましこう記されています。
  当寺は釈迦牟尼所来を本尊とし、文安年間(15世紀半ば)に東向寺として創建されたが、火災で全焼した。1600年(慶長5年)に中山の地に中峯山宗龍寺として再建された。1722年(享保7年)に再び火災で焼失。現在地曲沢地籍に涌泉山宗龍寺という寺号で再建されたが、1863年(文久3年)に火災で山門と庫裏を残して焼失した。庫裏は明治以後に、鐘楼は大正期に、本堂は1974年に再建された。

  ある史料では、上田市蒼久保(上青木)にある龍洞院の末寺として1600年に中山地区に創建された、と記されています。これは、焼失後に再建されたさいに、龍洞院の和尚によって再開基され末寺となったということのようです。その地を統治していた領主は中山左衛門で、隠居後に入道して宗龍と称したのだとか。
  この場合の中山とは、御岳堂集落の依田神社の北西にある地区で、砂原峠の東に位置しています。その背後の小さな山を日向山と呼ぶそうです。地元の人びとは、宗龍寺跡を山寺跡と呼んでいるとか。
  ところが、山寺跡と呼ばれる場所は、そこから3キロメートルくらい北の尾野山の中腹にもあるようです。もしかすると、宗龍寺の旧所在地はそこかもしれません。
  郷土史家によると、山寺とは学僧たちが集まって仏教学の研究と修行をする寺院を意味するそうです。そうすると宗龍寺の前身は、平安時代に天台または真言の密教寺院として開創された寺院かもしれません。
  鎌倉時代から室町時代にかけて、臨済宗、次いで曹洞宗の僧侶たちによる荒廃した古刹を再建する運動がおこなわれ、古刹が禅刹として再興再建されたので、宗龍寺はそういう来歴をもつとも考えられます。

  というように来歴沿革に謎が多い寺院なのですが、さらに古代から中世まであったとされる依田城跡を寺域境内としているので、いよいよ探索への関心は深まります。
  依田城は木曾義仲が平家追討の先端を開くために、信濃や上野の武士たちを糾合した拠点だと伝えられています。義仲挙兵の拠点は、宗龍寺の北西にある居館跡だとも言われています。
  この2つの史跡は浅い谷を挟んで直線距離で300メートルしかありません。数千におよぶ大軍勢が集合したのであれば、連絡路で結ばれて一体化していたのかもしれません。


「絵本の竜宮城」のような山門


春の淡い苔に降り注ぐ陽射し

  尾根裾の市道から宗龍寺の本堂まで急坂をのぼってみることにしました。参道は次々に段郭を経由して、やがて何段階かの石段参道をたどることになります。
  一番下の段郭には沢を引き込んで扇子型の浅い人造池をこしらえてあります。参道はこの池を見ながら急斜面をのぼっていくことになります。
  その小径が東側に回り込んだとたん、V字形に切り返し、ほとんどUターンするように石段をのぼることになります。往古、ほぼ直角に2回左回りして進む大手道だったと見られます。つまり、桝形虎口だったのです。
  帰り道で石段音中にある、石段と低い石垣で囲まれた正方形の踊り場をじっくり眺めると、これはやはり桝形跡で、上の段丘面(西側)と北側に矢倉が設けてあったのではないかと推定できます。


庫裏は大正時代に再建されたという


重厚な本堂は昭和期の再建だそうだ

|  前の記事に戻る  ||  次の記事に進む  |