御嶽神社は一見奇妙な場所にあります。山腹にあって木曾義仲が拠点とした御岳堂館に近い位置ですが、今は周囲に森林が広がっていて、その裾には棚田ばかりで集落とは離れています。 この地理的な配置が意味するのは、本来近くにあってこの社を祀った村落は痕跡さえ失っているということです。境内神域の様子からは、祭神は諏訪大社上社前宮ではないかという印象なのですが、なんと出雲大社(オオムナチ=オオクニヌシ)なのだそうです。 ◆歴史の変遷のなかで社だけが残された神社◆ |
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![]() 参道から振り返ると依田川の谷間の蒲谷浅間山が見える。その手前、丘の背後は千曲川の大峡谷。 |
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![]() ▲幟柱の先は御岳堂中山区の集落 ![]() ▲諏訪社系の独特の明神様式の大鳥居 ![]() ▲社殿には緩やかに30°暗い曲がる参道 ![]() ▲石垣壇上に拝殿・幣拝殿、その奥に本殿 ![]() ▲拝殿前の横に合祀された石祠の列と小さめの鳥居 ![]() ▲10柱ほどの境内摂社の列 ![]() ▲昭和期に築いたと見られる石垣の上に社殿群が並ぶ ![]() ▲主拝殿にお幣拝殿を接合したような拝殿の造り 険阻な山岳(尾根や山頂)に構築物の跡があると山城跡と見なす歴史家が多いが、しかし、兵站や集落の防衛機能からすると、そんな険しい地形を経由して防衛や迎撃に向かうのは不可能に近いと判断できる。山麓の平坦地にいる敵軍に発見され、迎え撃たれる危険性の方が高いからだ。 登山を経験してみれば理解できるだろう。装備・具足を付けて急斜面を素早く降りるのは非常に危険で難儀なのだ。 私見では、峻険な尾根や峰の城砦跡と見られる場所は、領主と農民とが祭事をつうじて年貢などの統治の条件について談合・妥協する(まつりごとの)場だったのではないかと考える。日本の歴史家たちは、兵站や軍組織の運動に関する理論についてすこぶる知見が浅いがゆえに、江戸時代後期の儒学者=軍学者が捏ね上げた非科学的な「山城理論」に呪縛されている。 結局、そういう文書(史料)が残されているからという理由で、デタラメが書いてある書物に拘泥するよりも、科学としての兵站理論の視点から地形の意味と役割を読み解く訓練が圧倒的に足りないのだ。 |
◆往古の面影はまるでない◆ 御岳堂集落の中心部には依田神社があるにもかかわらず、さらに奥の山腹に御嶽神社が祀られているのはなんだか違和感があります。あるいは、依田社が里宮で御嶽社が奥宮(本宮)なのかもしれません。それとも、御嶽社は中宮で御岳山頂と金鳳山頂のいずれかに奥宮があったのかもしれません。 ◆近代の宗教政策の影響◆ そして明治時代になると、神仏分離・廃仏毀釈が苛烈に推進され、さらに日清・日露戦争後には政府の深刻な財政危機を受けて祠堂合祀令が強行されました。集落の小規模な社や指導を郷社や村社に合祀されました。
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