上田市丸子の御岳山の東麓から北東にかけて御岳堂地区があります。山裾の道沿いにいくつかの集落が連なって、昭和の農村風景を残しています。
  「信州の原風景」と呼んでもよい懐かしい景観に出会える場所です。近くには条里遺構や城砦・城館の跡があり、古い来歴を持つ寺院や神社が多く、古墳時代から昭和期までの史跡や歴史景観を探し出す歩き旅には最適の村里です。


◆塩田から依田窪まで向かう旧道の要衝◆

 
木曾義仲館跡の下から東北東(長瀬方面)を展望。背景は浅間連峰で、手前の低い尾根の向こうは千曲川の大渓谷。



▲東塩田から依田窪方面に連絡する旧道が集落内を往く


▲昭和前期までに養蚕に合わせて建てられた広壮な古民家


▲総二階の養蚕向けの総二階の主屋や土蔵が並ぶ旧道沿い


▲右側の家屋の建築様式は養蚕向けのつくり


▲集落から背後の丘の修復にのぼる小径


▲依田川沿いの丘陵の斜面は千曲川の大峡谷に向かって降りていく


▲木曾義仲居館がある丘の下の集落の家並み


▲養蚕向けの総二階の作業屋


▲漆喰壁の土蔵が豊かな農村だった歴史を物語る


▲御岳堂の五輪塔群: 古いものは鎌倉期のものか


▲白地蔵を祀る小堂: 五輪塔の近くにある

◆依田川の左岸の山裾の丘斜面◆


妻側に露出する梁桁は災害に強い構造を示す

砂山峠に向かう旧村道は鎌倉道の跡かもしれない

  御岳山は、千曲川の支流依田川の左岸にある富士岳山(標高1034m)の東尾根の端にある峰で、標高はおよそ865メートルです。山麓を依田川の支流内村川が洗っています。信州特有の降水量が少ない地方ですが、豊かな山々に取り巻かれていて、麓の谷間には水量豊かな河川が流れているので、古墳時代から集落や棚田や段々畑が開かれていたそうです。
  河岸台地や尾根山腹には中世の城砦や城館の跡が1、2キロメートルごとにいくつも残っているのですが、詳しい調査研究はほとんど手つかずで、伝説や伝承の域を出ていません。まして、集落の歴史については史料がめったにないようです。
  奥深く分厚い歴史を感じさせる地形や史跡があるけれども、検証に耐えられる具体的な歴史像は描けていないというのが実情です。そこで、地形や歴史の痕跡にもとづいて想像をはたらかせながら、御岳の集落を探索してみることにします。

  この一帯は、内村川や依田川、その支流群が形成した扇状地が複合し、麓に河岸段丘が連なっている尾根に囲まれた峡谷地形をなしています。地球的規模での気候変動から見ると、8世紀から13世紀の温暖期、13世紀末から18世紀までの寒冷期の波によってとりわけ降水量は変動し、これらの河川の破壊力というか地形変形力も変動してきました。
  このよう気候変動のなかで、一般に温暖期には降水量が増加して河川の増水氾濫が繰り返され、寒冷期には降水量が減少したものと推定できます。したがって、平安~鎌倉前期には危険な河畔から遠ざかって山裾・山間での農村開拓が展開し、鎌倉後期~江戸中期までは河岸や河畔湿地帯に近づいて開墾と農耕が進んだ――ただし飢饉や凶作に周期的の襲われた――という趨勢がみられます。
  この趨勢は、古代の東山道や鎌倉軍道が標高の高い尾根や山間や谷間を開削してつくられ、室町から江戸時代の軍道や街道が河川水系に沿った盆地・平坦地を縫って通るようになった事情を物語っているように見えます。


斜面の集落の庭はこんな感じ

◆信州の主要な道が出会う要衝◆

  御岳堂地区は、古代の東山道(駅路)跡にも近く、鎌倉時代には塩田平から佐久・諏訪湖方面を経由して関東・鎌倉に向かう軍道(鎌倉道)の跡が塩田~砂原峠に残っています。丸子の東に迫る峠を越えると、望月や御牧原台地の官牧(大和王権直轄の馬牧場)に赴く道も古代から開かれていたようです。つまりは古くから交通や交易の要路・要衝だったようです。
  したがって、古代から近隣に有力豪族の兵站拠点が置かれていて、有力な寺院(神社)が開創され、ことに山岳山間にはいくつも密教寺院があったと見られます。そして、平安末期には依田川沿いに多くの武将領主が城館を構えて所領を統治していたことから、木曾義仲の挙兵進軍に見られるように、大規模な戦役での行軍や城砦の構築が試みられた拠点や経路となりました。
  御岳堂からは依田川に沿って武石、依田窪、長窪に向かう道があって、近世(江戸時代)には、中山道――下諏訪から佐久平に向かう主要街道――に連絡することになりました。集落の西にある砂山峠には塩田平、青木村に向かう道があって、保福寺峠越えの杣道に通じ、また内村川渓谷の上流には鹿教湯の杣道が控えていて、松本上田往還を往く多くの旅人や商人が利用しました。


五輪塔から依田神社に向かう小径

  今は山里の面影も濃いが、五輪塔から依田神社への道沿いは往古、城下街があって、領主の城館が構えられていたかもしれません。開墾のさいに遺構から見つかった古い五輪塔が小径の脇に並んでいます。

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