◆尾根の背に座す北野神社◆


▲大出公園と国道406号を挟んで鎮座する北野神社(中央は神楽殿)

▲大鳥居の様式は、神明宮様式と明神様式の折衷

▲双子の杉老大樹のあいだを抜ける参道石段

▲尾根参道から見おろすと木の間に神楽殿が見える

▲急勾配の尾根参道

ようやく社殿置かれた台地(境内檀)が見えてきた

▲壇上正面には拝殿が見える


▲拝殿: 扉が少し開けてある

▲幣殿の背後の本殿: 千木はないが神明式の社殿だ

▲本殿の扉

▲社殿脇から神楽殿を見おろす

▲鳥居から神楽殿に続く、尾根下の小径

▲鬱蒼たる森陰で苔が生えている小径

▲神楽殿脇から鳥居方向を眺める

▲神楽殿: 妻側が社殿に向いている

▲神楽殿の菱脇には森が迫る

▲神楽殿から尾根上の社殿を見上げる

  残念ながら、これまでのところ大出北野神社に関する史料は手許にありません。したがって、探訪時に私が抱いた印象・感想を述べるしかないようです。
  まず北野神社の地理的配置から見てみましょう。
  大糸線白馬駅の西脇を国道148号が通っていますが、駅から300メートルあまり北の交差点から東に向かう道が国道406号です。これはもともと、小谷からの北端の深山を横断して、鬼無里そして戸隠、さらに信濃町柏原に連絡する街道です。鬼無里街道と呼ばれてきました。

  その交差点から850メートルほど東に進んだところが大出公園で、国道を挟んで反対側(南西側)が北野神社の神域です。蕨平のさらに南の奥から続く長い尾根の北端、姫川の南の畔に位置しています。この尾根は西側を姫川に、東側を峰方沢によって削られた細い尾根で、その裾近くに神社があります。
  大出公園から南西に重厚な社殿が見えますが、これは神社の神楽殿で、拝殿と本殿はその南に迫る尾根をのぼった台地のうえにあります。
  神楽殿の南東側の尾根の端まで回って見上げると鳥居があります。この鳥居は神明式と明神式という2つの様式の折衷となっています。つまり笠木は、伊勢神宮などの大和王権系の神社の鳥居のように水平で反り増し(上向きの反り返り)がありません。ところが、笠木の中央部と貫を結ぶ額束が設けられていて、扁額が掲げられています。
  鳥居から狭い尾根上に設えられた急勾配の参道石段が続いています。健脚者だけに参拝が許されるような急な石段です。

  鳥居のすぐ先には双子の老杉が関門のように立ちはだかっていて、その間を抜けて参道石段はのぼっていきます。双子杉の樹齢は300年以上はありそうな太さです。もともとは別個の樹だったのですが、大きく成長するのにともなって根元と幹が融合したしまったのでしょう。
  石段をのぼっていくと、右手の尾根裾に神楽殿を見おろすようになります。鳥居から神楽殿まで続く尾根下の小径は、鬱蒼とした森陰の道で、苔生していてなかなかいい感じです。

  そのときふと想像したことがあります。ここには幕末まで寺院があったのではないかと。というのは、大出公園の西端の駐車場の周囲から吊り橋茶屋にかけては、割合に広い墓地となっているからです。しかも、姫川対岸には観音堂もあります。
  そうすると、現在国道が通っている谷間の平坦地には、かつて堂塔伽藍が建立されていたのではないでしょうか。なにしろ、明治維新のおりの松本藩における廃仏棄釈太政官令はすさまじいものでした。そして、幕藩体制下、ことに深刻な財政危機となった幕末期の信濃の百姓(農民、商人などの庶民)たちは統治者への不信感や反発は強かったようで、彼らは幕藩体制を徹底的に壊せば、身分的な格差や不自由から解放されるのではないかと望んだのです。
  寺院は幕府の法規によって統治機構の一環をなし、神社を統制し、しかも住民の戸籍(身分籍)を管理していたので、いく分かは民衆の反感を買っていたようです。
  しかし、明治新政権は旧幕府の権威を象徴するものは徹底的に破壊しなければ自分たちの権力は確立できないと危機意識を抱き、民衆を旧権威の破壊に扇動動員したかっただけです。ひどい破壊の後に太政官令は撤回され、自由を求めた民衆運動は弾圧されていきました。そのうえで、伊勢神社などの大和王権系の神社を頂点とする神社のヒエラルヒーを構築しと神道イデオロギーを浸透させていったのです。


拝殿の内部の様子

本殿前から拝殿の裏側を見ると

  さて話を戻しましょう。
  拝殿の脇から見おろすと、神楽殿は間取りが正方形です、これは通常、神社の神楽殿や舞殿の造りとは趣を異にしています。寺院のお堂としてなら、ごく通常の形式です。そして、神楽殿の向きも変則的です。もちろん、今は北野社しかないので、神楽殿が本殿を向いていて、南向きは当たり前です。
  しかし、そうすると、今度は神楽殿の寄棟屋根の向きが「妻入」になります。堂宇の向きはやはり棟側が祭祀する主殿・主堂に面するのが普通ですから、寺院があったときには、神楽殿の東側に本堂かそれに近いものがあったのではないでしょうか。
  ふたたび私の想像ですが、尾根の上の拝殿と本殿は切り離されて別個の建物になっています。これは社殿を建て替えたさいの配慮なのでしょうか。それとも、ここには戦中まで伊勢社などの大和王権系の神社もあって、戦後、国家神道への反発から北野社だけ残したのではないかとも憶測されます。
  戦後、信州では国家神道イデオロギーに誘導された中国の支配・植民地化や戦争突入についてものすごい嫌悪と深刻な自己批判が繰り広げられました。というのは、白馬や小谷、鬼無里などの村々は、政府の政策に乗って積極的に多くの世帯の次男・三男などを満州開拓に送り出しました。しかし、戦後にはそういう多数者の悲惨な抑留生活や獄死が待っていたのです。戦前政府の対外侵略と戦争に対しては、いまでも強い憤懣と自己批判があります。
  そんな背景から、ここには戦前の天皇制イデオロギーと結びついた伊勢社あるいは皇大神宮を破却して北野社を残したのではないでしょうか。折衷方式の鳥居の形の意味はそういうものではないか、と思うのです。少なくとも信州では、60代後半世代までの何割かの人びとは、神社への参拝にさいして過去の親類縁者の苦悩や痛みを回想し、神道思想への複雑な思いがともなうのです。


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