◆路傍の石仏、石塔、野仏を探して◆


沢渡集落の西端近く、貞麟寺の東側の風景: 晩秋の美しい景観だ。が、杉の森は昭和期に植林されたもので、もとは茅場だったと思われる。農林省の政策で杉植林が進められたが、建材を外材輸入でまかなうようになってから政策は破綻してしまった。


  白馬南小学校の脇から南に沢渡村を貫く塩の道もまた、素朴な民衆の「祈りの道」です。スキー場などのリゾートから少し離れていることもあってか、この集落には昔日の街道風景がひときわ強く残されているような気がします。沢渡北原庚申塚石仏群のありようを眺めて、そんな印象を受けました。
  千国街道を南にたどりながら、路傍の祈りの場を探してみよることにしました。

◆沢渡歩きの地図◆


▲白馬南小学校の校庭の西側の段丘草原に並ぶ石仏群


▲庚申塔と脇侍のような小さな石仏たち


▲庚申塔は大きな造りで、石碑風だ


▲石塔・石仏の背後には山林が迫っている

◆沢渡北原庚申塚石仏群◆

  杉林の横の小さな草原に並ぶ庚申塔と石仏群の数は15基ほど。これまで観察した千国街道脇にある石仏群史跡としては、最も規模が小さいものです。晩秋の木漏れ日を浴びて、それらは静かに長閑に佇んでいます。


上を見あげると梢と樹冠が目に入る

  樹林に取り巻かれた草原には静謐が漂う

  ここの石仏や石塔は、セメントによる補強や補修がほとんど目につきません。おそらく昭和期まで受け継がれたままの状態で保存されてきたのでしょう。私が見るところ、耕地整理や区画整理、道路整備のさいに発掘され移設されたものは、ほとんどないようです。
  石仏・石塔の数の少なさは、村落の規模が小さいからかもしれません。


  往時からここにあったまま保存されているように見える


▲庚申塚から100メートルほど南の路傍の石仏たち。往時からここにあったまま保存されているように見える


▲傍らには「塩の道 千国街道」の標柱


▲初冬の陽だまりの石仏群

◆路傍の野仏を愛でる◆

  沢渡北原庚申塚から南に100メートルも行かない街道脇に一群の石仏があります。かなり近い距離なのに、庚申塚に集めたりせずに、昔日のままに保存されているようです。
  有名な俳句をもじって「古道来て なにやらゆかし 石仏(いしぼとけ)」の一句が浮かびました。松尾芭蕉の「山路来て なにやらゆかし すみれ草」のパロディです。閑寂な塩の道の路傍の草むらに並ぶ野仏に、深いゆかしさを感じたしだいです。
  石仏群の傍らには「塩の道 千国街道」の標柱が立てられています。観光局か教育委員会か、目的意識的に石仏群を統合せずに、往時のままに保存してきたことがわかります。街道を歩く現代人に昔日の旅人の心を追体験してほしいという配慮が込められてように感じました。

  すでに述べたように、江戸時代から村の各住戸が自己負担で石仏や石塔を用意し、時宜に応じて必要な場所に石仏を奉納設置したのです。この場所は、人びとや村にとって何か特別な意味のあるところだったということでしょうか。


  石仏から街道の北を振り返る


▲夏の庚申塚(撮影7月30日)

▲晩秋から初冬の陽を浴びる石仏


▲落葉散り敷く庚申塚


▲ここは沢渡集落の南の端だったらしい
▼街道の反対側に立つ万霊塔



▲塩の道(遺構)は杉樹林に埋もれてしまったようだ

◆沢渡南原庚申塚◆


  沢渡集落南端の塩の道

  塩の道の遺構は、沢渡集落の南端で杉の樹林にぶつかって消えてしまいます。舗装道路は二股に分かれ、東側の道は国道148号に連絡し、西側の小径はJR大糸線南神城駅に行き着き、どちらも佐野集落に入っていきます。
  この二股の西脇に沢渡南原庚申塚があります。いくつもの庚申塔や馬頭観音、供養塔などが並んでいます。庚申塔は、本来は60年に1度回ってくる「かのえさる」の年に建立されるはずのものですが、そういう年回りからズレて建立されることもあったようです。

  説明板によると、4基の庚申塔のうち年代がわかっているなかで一番古いものは享保9年(1724年)のもの、次に古いものが万延元年(1860年)、一番新しいものが大正9年(1934年)なのだとか。
  この庚申塚と道を挟んで万霊塔が立っています。浮き彫りになっているのは、万物の霊を祈る僧または菩薩の姿でしょうか。
  さて、ここで塩の道の後は消えてしまいます。明治以降のどこかで耕作地あるいは茅場になってしまい、その後、昭和期に植林で杉林に埋もれてしまったようです。私は西の小径を進み、鉄道駅を経由して佐野集落に向かうことにしました。


この道の先は国道148号だ

こちらの道は大糸線南神城駅に行き着く

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