▲土蔵と茅葺古民家が並ぶ街道風景
◆戦国期の城下街が起源か◆
室町中期(14世紀末)から戦国時代にかけて白馬村神城南部――三日市場、沢渡、佐野――は、仁科氏の傍流が始祖だという沢渡家が地頭領主として農村開拓を指導しつつ支配していたそうです。信濃国人の小領主として、古くは本家の仁科氏に臣従し、そののち武田氏に仕え、武田家が滅ぶと小笠原家の家臣となって家門を維持したようです。16世紀末、豊臣政権下で沢渡家は主君の小笠原家の転封とともにこの地を去ったそうです。
沢渡氏の統治の中心地は沢渡の東方の三日市場だったと伝えられていますが、古代から塩の道が通る西側山麓にも小さな出城というか砦があって、その直下の集落があったようです。それが沢渡集落の起源となったのではないでしょうか。
さて、この日は、右側上から2番目の写真の古民家の高齢のご主人に話をうかがうことができました。この家は、大工をしていた祖父がもう100年以上前に自らの手で建てたものだそうです。かつては杉板葺きで屋根材を抑えるために大きな石を載せてあったのですが、トタン葺に改修したそうです。
豪雪地帯なので、屋根は7年ごとに60~70万円以上もかけて塗装し直さなければならないので、大変なんだ、とのこと。古民家の維持は大変です。
おじいさんはさらに、姫川の底を掘り下げて河畔の水田の水を川に落として乾田化したという稲作の歴史を語ってくれました。トラクターによる深耕と施肥の改良で、収量は倍増したそうです。
▲二階の高さに注目。昭和期に改築したか。
▲広壮な古民家:民宿か旅館だったのか
▲庭先には初冬の気配が漂う
◆晩秋の沢渡――街道風景◆
沢渡地区に入ると、街道脇の風景は山裾の農村の色合いを一気に濃くしています。山林が間近に迫っているからでしょう。
私は、南東からしだいに高度を上げていく太陽のまぶしい光を正面に受けながら南に歩くことになります。青く晴れ渡った空の下には、紅葉の盛りを過ぎて明るい黄褐色を帯びていく山野が広がっています。
▲山腹から麓の水田まで錦繡に染まる
▲ススキの穂が白く輝いている
沢渡集落では千国街道は山裾を等高線に沿って南北に往還しています。したがって起伏や坂はほとんどありません。ところが、街道に連絡あるいは交差する村道――姫川河畔の田畑や国道に向かう小径――は東西にはしっていて、いわば等高線を縦断するかたちになっています。つまり坂道となっていて、東に向かって緩やかに下っていきます。
沢渡集落も、飯田や飯森と同様に、山裾に位置する姫川の河岸段丘の上につくられたのです。姫川河岸は低湿地となっていたので、開拓農民は山裾の丘陵に居住拠点を建設し、河畔の低湿地で苦難に満ちた水田開発をおこなったのです。
▲街道脇のノカンゾウとカラスアゲハ
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