江戸時代の海野宿の姿
下の絵図は、江戸時代の海野宿の姿を推定想像した絵です。
海野集落は、遅くとも室町時代に形成された豪族海野氏の居館(砦)の下の千曲川河岸段丘に形成された都市集落(城下町)です。古い街割り(それにともなう複雑な権利関係)のため、既存の街並みの変更は難しく、北国街道の建設にともなう間の宿としての街づくりでは、街道の道路幅の拡幅には大きな制約があったものと思われます。
おそらく、街道の北側の既存の街並みは変更や移転が難しかったので、以前からの道を北国街道の本通りとして、その南側に新たに宿場用水を掘削し、さらにその南側に1間半ほど道幅を拡幅して、家並みを建設したのではないでしょうか。用水の両側には護岸や土固めのために並木(松やカエデ、ケヤキなど)を植え、家並みの前には前庭植栽をあしらったようです。
並木は夏場には住民や旅人に木陰の涼しさをもたらし、それとあいまって前庭植栽が美し街道景観を与えてくれたようです。
ところで、平地では新たに一から宿場街を建設する場合には、街道づくりの原則として、街道の道幅は6間ほどにして中央部に用水を通して用水沿いに並木を植え、両側の家並みの前に各戸ごとに2間幅ほどの前庭植栽をつくらせました。したがって、街道の中央部と両側に並木や植栽のグリーンベルトがともなう街道景観が形成され、世界的に先進的な道路=都市環境を用意したのです――家屋はややみすぼらしかったのですが。
このような緑豊かな街道風景の名残りを今に伝えているのは、信州では、海野宿以外では善光寺西街道の郷原宿と三州街道小野宿だけです。今となっては、この3つの街の景観は、きわめて希少価値の高いものといえます。ただし、海野宿以外の2つは交通が激しい国道沿いで、ゆったりと歩くことはできません。
信州の街道街場では、町屋家屋はほとんどが草葺きまたは茅葺きで、壁は土壁で漆喰塗工はありませんでした。また、山間部を往く中山道では平地が少なかったので、概して街道の幅は狭かったので、宿場の並木や植栽がなかったり、狭かったりする街も多かったようです。
上の図はかなり簡略化・模式化されています。間口が大きい棟入方式町家の有力商家が向かい合う形にしてあります。本陣と脇本陣または問屋が向かい合わせになってるのです。イメージを簡略化するためです。
ここで表現したいことは、要するに、宿場内では街道に面した一戸当たりの間口が狭いので、妻面を街道に向けた妻入方式の町家が圧倒的に多いということ。そして、飛び抜けて有力・富裕な商家――本陣や脇本陣、問屋、旅籠など――だけが広い間口をもつことができたので、棟入方式の町家を構えることができたということです。というのも、街道に面した間口の大きさに累進比例して多額の税が課されたからです。
宿駅の街では税は税額を藩庁に納めるのではなく、本陣や問屋の業務を無償で務めることで支払っていました。村長でもある本陣は、各住戸からこの業務のために必要な分担金や労力を税として徴収しました。本陣や脇本陣は、参覲交代の大名や幕府公用の旅客、朝廷の使者などの宿泊サーヴィスそのものは無料で受け入れ――ただし追加的なサーヴィスには料金を請求した――、問屋は藩や幕府公用の旅客の継立て(輸送・配達)業務をこれまた無料で担っていました。
民間の旅客はもちろん有料でしたが、価格は幕府と藩が公定したもので、コストをまかないきれない場合が多かったようです。