▲小野神社・矢彦神社の社叢(鎮守の森)と北小野地区
小野は、三州街道は――伊奈街道とも呼ばれている――の宿駅ですが、数奇な運命に翻弄されてきました。諏訪と木曾とを結ぶ経路の要衝だった小野盆地は、戦国末期に大名どうしの領地争いによって南北2つに分割されてしまいました。
そして、小野神社の神官たちのあいだには鎌倉時代から2大派閥の争いがあったようですが、これも領地争いと集落の分割の伏線、背景となっていたようです。
そして、徳川幕藩体制のもとでも、初期中山道(中仙道)の開削建設をめぐる幕閣諸藩の利権争いから、中山道は塩尻回りに編網され、小野宿は木曾の贄川に連絡する街道から外れることになりました。
▲小野街道の牛首峠から山口・中村の集落を遠望
発足当初の中山道は、木曾の贄川宿を過ぎてから東の牛首峠を越えて小野宿に連絡し、さらにそこから最短の道のりで小野峠(三沢峠)を越えて諏訪湖畔の岡谷、下諏訪にいたる道筋でした。たしかに深い山中の難路ですが、ひとたび開削建設した街道をつくり直すほど深刻な険路ではないように思えます。やはり、幕閣と諸藩の利権争奪が一番の原因だったのではないでしょうか。
中仙道のコース変更の背景に権力闘争があった!?
初期中山道の作事(建設計画)を指揮したのは、大久保長安でした。長安は武田家の旧臣でしたが、武田家の滅亡にともなって徳川家の家臣にいわば鞍替えした世渡り巧みな能吏でした。初期中仙道の経路を木曾路の贄川から下諏訪にいたる最短コースとして構想計画したのは長安です。
ところが、長安死没の翌年、中仙道の経路は塩尻回りに変更されました。このとき、長安がその権限をもって利権・権益の私物化独占したという強い非難が沸き起こっていたのです――佐渡金山の経営という生臭い利権も絡んでいたようです。死去して反論できない長安に「罪科」を全部被せた格好ですが、諸藩を巻き込んだ幕閣での権力暗闘があったのではないでしょうか。