福島城の縄張り・地形の想像絵図

  上の絵地図は、江戸時代初期の福島城の縄張り跡地を推定したものです。その頃の福島城跡をめぐる地形を想像したものが、下に掲載した「福島城をめぐる地形想像図」です
  江戸時代はじめの大笹街道は、福島宿を出た後に福島城跡辺りで南に折れて、その後南東方向に進んで井上に向かっていたものと考えられます。現在、梨畑の片隅にある福島城跡を示す標石は、城の縄張りの西端長辺(の北西辺)に当たるのではないかと見られます。
  城の縄張りは、ほぼ長方形で、南北にだいたい150メートル、東西に70メートルくらいだったのではないでしょうか。規模の小さい出城のようなものではなかったかと思われます。

  『高井郡福島城興亡史』に記録された伝承によると、1555年(弘治年間)に松城海津城(松代城)の支城として構築されたそうです。築城を手がけたのは、武田軍だと見られます。本能寺の変の後、北信濃を征圧した上杉景勝の治下で、福島城は須田信正の居城となりましたが、麻績攻略の戦役にさいして軍規を破ったために、1585年(天正13年)に景勝の軍によって攻め滅ぼされ、このとき廃城となったのだとか。
  築城から廃城・破却までわずか30年間の短い歴史でした。
  須田信正は、臥竜山一帯を治めた須田氏の一族だそうです。武田家の北信濃攻略・征圧を受けて須田宗家が越後に逃れて上杉家に臣従することになったのに対して、信正は武田家に臣従して千曲川東岸で勢力を伸ばしたようです。そして、松代海津城の出城として福島城を築き、長沼城とともに上杉勢に対する最前線の砦としました。信正はこの築城にかかわったものと見られます。

福島城をめぐる地形想像図

  上掲の絵図が示すのは、福島城の周囲の地形です。ここは蛇行する千曲川の分流が流れた経路でもあり、また鮎川や八幡川がその多くの分流をともないいながら千曲川に注ぎ込む地帯だったので、広大な沼沢地湿原を形成していたと見られます。福島城は、千曲川とその支流群の自然堤防を基盤として、城郭の周囲を掘り下げて水濠をつくり、堀上げた土砂で土塁を築き、沼や池と堀を連結した水系によって防御する構えの砦だったようです。
  沼地・湿地帯としての地形は江戸時代をつうじて残り、福島宿中町の東には元禄時代まで郷五郎池があったと伝えられています(⇒参照記事)。現在の果樹園が広がる地形は、明治以降の開拓・干拓によってつくり始められ、とくに昭和中期の用水と耕地の整備によって形づくられたものです。
  福島宿の町割りができた頃には、福島城をめぐる堀跡などの沼などの多くがなくなっていたでしょうが、集落との位置関係を知るために、このような絵図にしました。