本文へスキップ
長野県須坂市福島
  北国街道松代道の福島宿は、江戸時代の北信で最も繁栄した宿場街のひとつです。
  加賀前田家など北陸の有力諸藩の参覲交代の旅の通り道で藩主の休泊に利用され、佐渡で採掘された金が越後の寺泊から江戸に輸送される幹線だったそうです。
  福島宿は飯山に連絡する谷脇街道の宿駅も兼ねていて、上州に向かう大笹街道の起点でもあって、さらに千曲川舟運の川湊もあって、まさに交通の要衝でした。
  写真中央は、2つある本陣のひとつを担っていた丸山家の長屋門。
福島宿の歴史と地理

  北国街道が江戸幕府認許の公道として発足したのは1610から11年(慶長15、16年)にかけてです。福島宿は、1611年に越後高田と北信濃三郡を領していた松平忠輝によって伝馬証文を与えられて建設が始まったそうです。1622年(元和8年)、真田信之が松代城主に移封されたさいに福島宿は松代藩領となり、以後幕末まで続きました。
  戦国時代に武田家と上杉家がつくった軍道を土台にして建設された北国街道は当初、牟礼宿から長沼宿を経て千曲川を渡って福島宿にいたり、東岸を松代宿、屋代宿に向かう経路でした。ところが、やがて牟礼宿から平出村を経て善光寺に連絡する脇往還が開削され、18世紀前半にかけて、この善光寺道が本道となり、松代道が逆に脇往還と位置づけられれるようになりました。
  とはいえ、犀川以南の「狭義の川中島」はもともと、犀川から千曲川に流れ下る無数の河川がつくった広大な湿原地帯でした。河川流路の変更(瀬替え)と用水路整備・干拓などが完了する18世紀半ばごろまでは、千曲川左岸は通行が困難でしから、松代道の方が街道として主要な役割を演じていました。
  18世紀半ばからは、徳川の平和のもとでいたるところで農業や商工業が発達して、街道や舟運――河川・湖水・沿海――に沿った物流量が飛躍的に増大します。松代道が脇往還になったとはいえ、福島宿は交通の要衝として隆盛を続けていたようです。


▲写真中央は、もうひとつの本陣竹内家の土蔵長屋門: 竹内家は、貨客の継立て業務を担う問屋も兼ねていた

▲往時の福島宿の南端はこの辺りだったと推察される

▲集落横の堤防から河川敷越し北西方向に見える山は飯縄山

  福島宿を通り抜ける旧北国街道松代道は、宿場の街並みのなかでは、今でもほぼ往時の形と道筋を残しています。けれども街の外側では、旧街道は明治以降に国道となったり、さらに県道に変更され、道筋が改造されています。何よりも、街の南端の桝形は交通の阻害となるので撤去され、道筋も変更されました。

■千曲川河畔の宿場街■

▲常徳寺の南側の辻からの旧街道と福島の街並み

▲千曲川堤防を街の南端から歩いて、集落の様子を眺めてみよう

▲宿駅時代の町割り(敷地区画)がまだ残されている

▲赤い屋根は浄国寺の本堂。背後は明覚山、最奥の峰は笠岳と横手山

▲朝の陽射しを受けて鈍銀に輝く瓦屋根。総二階造りは養蚕業の名残り。

▲重厚な主屋のや土蔵の造りが目立つ街並み

写真左端から伸びていく小径が街道と交わった地点が大笹街道の起点となっていて、そこから菅平高原を越えて上州嬬恋、大笹宿に向かう街道が始まっていた。


▲大笹街道起点の道標: トタン張り壁の土蔵軒下にある

▲街並みの中ほどから北(中町)の街並みと旧街道の姿

▲堤防下に広がる家並み

▲左端は天神社・八坂社の杜。

【⇒江戸時代の街道制度と宿駅】
【⇒信州の街道】

■建設まもなく宿場は移転■

  1600年の関ケ原の戦いで徳川側が勝利したのち、北信濃(川中島領)と越後は家康の六男、忠輝の所領となり、川中島領では犀川水系の瀬替え(流路改造)が始まりました。幾筋にも分流していた犀川はしだいに主流と数本の分流にまとめられましたが、現在の水系・川筋とは大いに異なっていました。
  1611年(慶長16年)から北陸道と中山道を結ぶ往還として北国街道が建設されていきます。その年、伝馬証文を受けて千曲川右岸の自然堤防の上に福島宿の集落建設が始まりました。ところが、それから三十数年後の1645年に千曲川の氾濫で街は壊滅してしまいました。当時は、犀川は何本も分流があって、その主流と千曲川の合流部が福島のすぐ南側だったため、溢れた水流の破壊力をもろにくらったそうです。
【⇒江戸時代初期までの千曲川水系】
【⇒江戸時代初期の水系と北国街道】
  その後、17世紀半ばから18世紀半ばにかけて、松代藩は千曲川と犀川の水系・流路を大がかりに改造する河川土木工事をおこないました。その結果、千曲川水系が東岸を浸食・攻撃する力が抑えられ、福島では宿場街を移転するほどの大水害はなくなったようです。しかし、その分、千曲川西岸の水害の頻度と規模が深刻になったようです。
【⇒江戸時代中後期の千曲川水系】


集落を見おろす堤防上の庚申塔

  18世紀半ばからは、犀川(丹波島)以南では無数の河川の流水を、新たに開削された灌漑用水路に流し、掘り出した土砂で用水堤防をつくることで湿原は干拓されました。こうしてより安全な陸路になったので、北国街道は善光寺道が本道になりました。しかし、暴れ川である犀川――分流を主流にまとめたの主流の流水量は増えたこともあって――を渡る市村の渡しは大雨によってときどき川止め――数日以上続く場合が多かった――になり、その場合には牟礼宿から神代・長沼・福島を経て屋代に向かう松代道が利用されました。そこで、松代道は「雨降り街道」と呼ばれたそうです。

  さて、氾濫によって潰滅した後、福島宿は元の位置から50~70メートルほど東に移転し、現在地に新たな街並みと街道が再建されました。
  現在街道沿いに残されている土蔵は、往時の位置から変わっていないそうです。ということは、街道の幅は最初から4間以上で6間近くもあったということになります。
  往時、信州の幕府公許の街道は豊かな宿場街のなかでは、道の中央に宿場用水路を通し、その両縁は草地で樹木が植えられていて、旅人に木陰を用意するようにしていました。そして、街道沿いの町家には道脇に前庭をつくらせました。松や楓、コブシ、ツツジなどを植えさせて、街道の両端に緑地帯がある美しい景観を提供していたそうです。
  江戸時代の街道は、オープンガーデンのなかを通っていたようなものです。
【⇒福島宿の街並み(町割り)絵地図】
【⇒江戸時代の宿場町の姿(参考記事)】




  さて、街道制度における宿駅は、幕府が認める公用の旅行者の宿泊や休憩の場を提供することと、街道沿いに貨物の輸送を継ぎ立てることが任務です。
  公用の旅行者とは、幕府の仕事を担う高位の役人や参覲交代の旅をする藩侯とその家臣従者、そして朝廷の使節としての公家などです。いずれも高い身分に属すので、宿泊・休泊施設はそれなりの格式が必要で、サーヴィスもしかりです。そういう施設とサーヴィスを提供するのが本陣とそれを補佐する脇本陣です。
  一方、街道沿いに輸送される貨客(人と荷物)を前の宿駅から引き受けて次の宿駅まで送り届ける業務が継立てです。この仕事を担うのが問屋(問屋場)です。人も荷物も馬や牛、船、駕籠、担ぎ人足などの運搬手段を用いて運びます。街道に沿って運ばれる貨物は、幕府公用や商用の旅人の荷物であったりといろいろです。
  いずれにしても、夥しい数の荷物や人が街道を往来していることになります。それらについて個数や重さ、送り先や送り元などをひとつひとつ確認し伝票に記録し、次の宿駅に向けて送り出す仕事は手間がかかり複雑です。問屋の家族と使用人だけでは出が足りず、ことに管理業務や記録・確認作業は大変です。そこで、宿場の年寄役たちやら雑用係などが業務を補佐することになります。
  福島宿は、北国街道松代道が通っていることに加えて大笹街道の起点でもあり、飯山・中野方面からの道(後の谷街道)にも連絡し、さらに18世紀末には千曲川通船(川湊業務)も松代藩から公認されました。物流量はものすごく多かったでしょう。

|  次の記事を読む  |