■建設まもなく宿場は移転■
1600年の関ケ原の戦いで徳川側が勝利したのち、北信濃(川中島領)と越後は家康の六男、忠輝の所領となり、川中島領では犀川水系の瀬替え(流路改造)が始まりました。幾筋にも分流していた犀川はしだいに主流と数本の分流にまとめられましたが、現在の水系・川筋とは大いに異なっていました。
1611年(慶長16年)から北陸道と中山道を結ぶ往還として北国街道が建設されていきます。その年、伝馬証文を受けて千曲川右岸の自然堤防の上に福島宿の集落建設が始まりました。ところが、それから三十数年後の1645年に千曲川の氾濫で街は壊滅してしまいました。当時は、犀川は何本も分流があって、その主流と千曲川の合流部が福島のすぐ南側だったため、溢れた水流の破壊力をもろにくらったそうです。
【⇒江戸時代初期までの千曲川水系】
【⇒江戸時代初期の水系と北国街道】
その後、17世紀半ばから18世紀半ばにかけて、松代藩は千曲川と犀川の水系・流路を大がかりに改造する河川土木工事をおこないました。その結果、千曲川水系が東岸を浸食・攻撃する力が抑えられ、福島では宿場街を移転するほどの大水害はなくなったようです。しかし、その分、千曲川西岸の水害の頻度と規模が深刻になったようです。
【⇒江戸時代中後期の千曲川水系】
集落を見おろす堤防上の庚申塔
18世紀半ばからは、犀川(丹波島)以南では無数の河川の流水を、新たに開削された灌漑用水路に流し、掘り出した土砂で用水堤防をつくることで湿原は干拓されました。こうしてより安全な陸路になったので、北国街道は善光寺道が本道になりました。しかし、暴れ川である犀川――分流を主流にまとめたの主流の流水量は増えたこともあって――を渡る市村の渡しは大雨によってときどき川止め――数日以上続く場合が多かった――になり、その場合には牟礼宿から神代・長沼・福島を経て屋代に向かう松代道が利用されました。そこで、松代道は「雨降り街道」と呼ばれたそうです。
さて、氾濫によって潰滅した後、福島宿は元の位置から50~70メートルほど東に移転し、現在地に新たな街並みと街道が再建されました。
現在街道沿いに残されている土蔵は、往時の位置から変わっていないそうです。ということは、街道の幅は最初から4間以上で6間近くもあったということになります。
往時、信州の幕府公許の街道は豊かな宿場街のなかでは、道の中央に宿場用水路を通し、その両縁は草地で樹木が植えられていて、旅人に木陰を用意するようにしていました。そして、街道沿いの町家には道脇に前庭をつくらせました。松や楓、コブシ、ツツジなどを植えさせて、街道の両端に緑地帯がある美しい景観を提供していたそうです。
江戸時代の街道は、オープンガーデンのなかを通っていたようなものです。
【⇒福島宿の街並み(町割り)絵地図】
【⇒江戸時代の宿場町の姿(参考記事)】
さて、街道制度における宿駅は、幕府が認める公用の旅行者の宿泊や休憩の場を提供することと、街道沿いに貨物の輸送を継ぎ立てることが任務です。
公用の旅行者とは、幕府の仕事を担う高位の役人や参覲交代の旅をする藩侯とその家臣従者、そして朝廷の使節としての公家などです。いずれも高い身分に属すので、宿泊・休泊施設はそれなりの格式が必要で、サーヴィスもしかりです。そういう施設とサーヴィスを提供するのが本陣とそれを補佐する脇本陣です。
一方、街道沿いに輸送される貨客(人と荷物)を前の宿駅から引き受けて次の宿駅まで送り届ける業務が継立てです。この仕事を担うのが問屋(問屋場)です。人も荷物も馬や牛、船、駕籠、担ぎ人足などの運搬手段を用いて運びます。街道に沿って運ばれる貨物は、幕府公用や商用の旅人の荷物であったりといろいろです。
いずれにしても、夥しい数の荷物や人が街道を往来していることになります。それらについて個数や重さ、送り先や送り元などをひとつひとつ確認し伝票に記録し、次の宿駅に向けて送り出す仕事は手間がかかり複雑です。問屋の家族と使用人だけでは出が足りず、ことに管理業務や記録・確認作業は大変です。そこで、宿場の年寄役たちやら雑用係などが業務を補佐することになります。
福島宿は、北国街道松代道が通っていることに加えて大笹街道の起点でもあり、飯山・中野方面からの道(後の谷街道)にも連絡し、さらに18世紀末には千曲川通船(川湊業務)も松代藩から公認されました。物流量はものすごく多かったでしょう。
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