左のイラストは、長沼藩時代よりも前の城の姿を復元したものです。戦国時代の城には陣屋や櫓、石垣、土塁、堀はありますが、天守はありません。長沼藩になってからも天守はつくられませんでした。天守の建築には莫大な費用がかかるうえに、幕府の許可が必要でその手続きにも相当な資金――老中などへの根回し資金――が必要であってみれば、わずか1万石あまりの小藩には不可能だったでしょう。
そもそも徳川の覇権のもとでは戦と軍事的威嚇の装置としての天守は必要なくなっていました。大坂の陣の後、すでに城は武力闘争の装置ではなくなり、徳川の覇権のもとでの平和の象徴となっていたのです。【⇒武田家時代の長沼城】/【⇒長沼藩時代城の縄張り資料】
■長沼藩の前史■
さて、長沼の地における城砦の構築に関する記録は、武田家が北信濃に侵攻してきてからのことで、1561年(永禄年間)に始まるそうです。信玄は弟の信豊に築城の命令を出して建設を始めたのです。
千曲川河畔の築城の地は、もとは武田家が追い立てた以前の領主、島津氏の居館があったところだとも伝えられています。追われた島津家は、現豊野町の大倉の城砦に立てこもり、上杉家に来援を求めて臣従することになったそうです。
はじめは、島津家の反撃や上杉家の来襲に備えた急ごしらえの砦だったようですが、7年後、武田軍の武将、馬場信房の縄張り(設計構想)にもとづいて、土塁や馬出し、桝形、堀を備えた城砦が構築されました。
工法としては、水濠を設けるために掘り上げた土砂をその縁に盛り上げて土塁とする「掻揚げ築城」だったとか。堀には千曲川から水を引きました。
■縄張りと城の構造■
その後、武田勝頼による改修や武田家滅亡後には織田家の家臣による城砦の修築がありましたが、基本的に武田家の城砦の基本構造の上に長沼藩佐久間家の手になる城郭の建設がおこなわれたと見られています。してみると、武田家の支配下での城の縄張りは、侍屋敷町の大半を包含する惣構えであったものと考えられるそうです。
さて、長沼藩時代の城の縄張りを見てみましょう。【⇒長沼城の縄張り図】それは、戦国末期の城の構造を手直ししたものです。
長沼城は千曲川の畔だったので堀に入れる水の量は豊富だったでしょう。堀の水は城の上流部から水路で引き入れ、中堀や三日月堀、外堀に回して、最後にふたたび千曲川に排水する循環水路となっていたようです。「ステ堀」と呼ばれる水路が河川水の取入れと排水用の水路だったと見られます。
上掲のイラスト【⇒拡大図】では、各廓には物見櫓と板葺の長屋風の陣屋しか設けられていませんが、江戸時代初期の小藩の城郭はおしなべてそんなものだったはずです。長沼藩が廃絶されてから、商工業の発展とともに、上田城の櫓のような漆塗りの腰板や漆喰壁に瓦葺き屋根の櫓や御殿が建設されていくようになったのです。
■長沼の戦略的重要性■
北信濃は、豊臣政権では決定的に重要な地域で、ことに長沼と松代は関東で力を拡大している松平家康に対する戦略的要衝でした。秀吉は上杉家を越後から会津に移封させて関東を北から威圧・牽制させ、松平家を畿内と会津から取り囲む形にしました。
そして、飯山から長沼の一帯を豊臣家の直轄地(蔵入地)としました。
一方、家康は関ケ原で勝利してから、北信濃の飯山から長沼にいたる地域には、股肱の家臣を置いたのち、さら北信と越後を擁する大領主として実子の忠輝を配置して、豊臣家――ことに加賀前田家――の東への影響力を封じ込めました。
しかし、大坂の陣で豊臣家を滅ぼしてのちには、強敵が除かれたせいか、徳川家門の内部での跡目をめぐる権力闘争・派閥闘争が目だってきたようです。
忠輝は家康から勘当され、蟄居ののち大坂の陣の年には改易されてしまいました。さらに、もうひとりの家康の息子、秀康は切腹に追い込まれました。この動きは、家康の跡目相続や幕閣の政策をめぐって徳川一族と有力譜代大名のあいだの派閥闘争が絡んだものと見られます。
長沼を含む北国街道松代道は、佐渡金山からの地金の輸送やら、大藩外様大名前田家の参覲経路でもあって、重要な交通の要衝でした。
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