浄国寺に引き続いて、勝楽寺と常徳寺を訪ねてみましょう。ここは、もともとは勝楽寺だけだったのですが、寺内に塔頭として常徳寺が創建されたという歴史があります。


◆勝楽寺と常徳寺を訪ねる◆



常徳寺の前は勝楽寺の参道となっていて、奥には山門(薬医門)がある。門の真後ろ奥に本堂がたつ。


▲街道上町通りのランドマークとなっている常徳寺の本堂


▲街道側に常徳寺の堂宇があって、その前を勝楽寺の参道が通っている


▲常徳寺の庫裏・居住棟: 参道の先に松代道がある


▲手前は常徳寺の境内庭園と庫裏・住居棟で、中央奥は勝楽寺の山門


▲堤防の下に勝楽境内と墓苑が広がる。本道の屋根はひときわ高く聳える。


▲山門(薬医門)をくぐると勝楽寺本堂の正面: 右端は庫裏・住居棟


▲端正に手入れされた境内庭園


▲本堂の手前北脇には勝楽寺の庫裏・住居棟


▲勝楽寺と常徳寺の境内南脇を抜ける小路: この先が街道


街道沿いにたつ常徳寺の本堂

  井上山勝楽寺は浄土真宗の寺院です。
  平安後期から北信濃高井郡井上郷――鮎川流域――を支配した源氏系豪族、井上氏一族出身の僧、唯仏によって、1214年(鎌倉時代建保4年)、勝楽寺の前身となった寺院が現在の信濃町に開基されたそうです。唯仏は関東二十四輩と呼ばれる親鸞の高弟のひとりです。
  唯仏は家門の意向で比叡山に修行に出されたようですが、そこで3歳年上の学僧親鸞と出会いました。ともに法然に師事して阿弥陀信仰を研鑽したとか。親鸞が越後に配流になったときには随行し、やがて北信濃や関東の巡歴にも参加したそうです。
  北信濃での寺堂の開基は巡歴の途次のことと見られます。
  鎌倉幕府の盛運とともに井上一族が北信濃から越後国境まで勢力を広げた頃合いでした。

  ところが、北信濃は各地で農地や村落の開拓建設が進むとともに地頭領主たちによる勢力争いが頻発したところで、領主の移封や新村の開拓建設にともない、あるいは戦乱や戦火を避けて寺院が移転することも多かったのです。
  その後、この寺院は現飯綱町の平出村、さらに現長野市の村山村布野に移転したそうです。詳しい年代や移転の経緯については不明です。


勝楽寺本堂の南妻面(本願寺風の造り)

境内庭園の南端に鐘楼がある

  ところで、武田信玄の北信濃攻略によって追われた井上家は、越後の上杉家を頼り家臣として臣従することになりました。武田家滅亡後、井上家は高井郡の旧領を回復しますが、まもなく上杉家の会津領への移封にともない、井上家も高井郡を離れました。しかし、勝楽寺は井上家の動きとは離れて千曲川河畔、鮎川流域に近づいていったのです。
  織田・豊臣が滅亡して徳川家の覇権のもとで幕藩体制が整い始めた頃合い1606年(慶長11年)に、勝楽寺は井上一族ゆかりの地、姫川流域の福島村の現在地に移転し、定着することになりました。現在の本堂は1923年(大正12年)に再建されたものだそうです。

  寺内にある浄土真宗の常徳寺は1783年(天明3年)、勝楽寺の寺内の塔頭支院として創建されました。初代住職、了性は隣接する中島村の出身だとか。現在の本堂は、5代住持、聞教によって再建されたものだとか。

  江戸時代には、勝楽寺の境内は今よりもっと広く、七堂伽藍を擁していたものと考えられます。往時を想像すると、いくつもの堂宇が並び叢林を擁する勝楽寺境内の横に、鬱蒼とした杜に囲まれた伊勢社、その脇に御師宿所がある広大な聖域をなしていたでしょう。


境内北西の堤防下からの眺め

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