街道宿駅の街には裏道(裏通り)が2筋あります。堤防下の西裏道と反対側の東裏道です。街道が街の「表通り」と位置づけられるのに対して、裏道とは街道沿いの家並みの裏手を往く小径のことです。参覲交代の旅をしている藩侯が宿泊するときには、街道表通りには番兵が配備されて警戒監視が強化されるので、住民や一般の旅人は裏道を通行することになります。
  福島宿中町の家並みの裏手となる東側に細道がほぼ往時のままに残っています。今回はその細道を歩いてみます。


◆宿場町の東側の裏手を探る◆



粗壁の土蔵が裏通りの脇にあって、独特の景観をつくっている。ただし入母屋造りはこちら側の屋根だけ。

▲福島公会堂から東に50メートルほどの場所から西の眺め


▲ここが裏通りの入り口:道幅は1.5メートルもない


▲クランク状に曲がる細道


▲土塀を彼方ような丈の低い納屋。寺院の回廊のミニチュアのようだ。


▲クランク道を曲がった先の道筋はこうなっている


▲さらに南に歩くと・・・屋敷地の裏通り側に荒家部土蔵がある


▲表通りから裏通りまでの全部が1軒の屋敷地になっている


▲かつて蚕種業で成功したのか、一続きの屋敷地に屋根の列が連なる


▲道脇に古びた土塀が続き、良い味わいの経験をつくっている


▲ここから細道は緩やかに湾曲していく


▲ここでは道幅は60センチメートルほどしかない


▲大笹街道側の裏道の出入り口はこんな感じ

  福島公会堂の向かいに街道から東に往く小径があります。その道を50メートルほど歩くと、右手に南に往く細道があります。この細道が中町の裏通りです。位置については、福島宿の町割り絵図を参照してください。絵図で「裏道」と表示されている小路です。
  この道は街道に面した家並みの裏手で、宿場の各戸にとっては、田畑で収穫した米や豆とか薪炭を土蔵などに運び入れるための通用路です。そのため、大八車がギリギリ通れるほどの道幅です。江戸時代からこんな細道だったと見られます。


30メートルほど先で鉤の手に曲がる

端正に修復された白壁土蔵

  この細道に入ると、20メートルも行かないうちにクランク状に曲がります。一度曲がると、そこから南にほぼ真っすぐに往き(わずかに湾曲して)大笹街道に突き当たります。そこで中町の裏通りは終わりです。大笹街道は、中町と上町殿境界を画す道です。
  この裏通りを歩くと、街道(表通り)を歩きながら観察した家並みを裏手から眺めることになります。こうして、福島宿の街並み(空間構造)がより明確につかむことができます。

  幕末までの町割りを見ると、松代道の東側に家並みは2列で、敷地の形は道に面した間口が狭く奥行きが深い長方形になっています。街道に面した家々では街道から出入りし、裏側の家々では裏道から出入りしたようです。それは、江戸時代後期から幕末の頃の状態です。
  『須坂市史』の「北国往還と福島宿」では、記録年代不詳の「御宿帳」に、宿場には寺2軒と民家26軒と記述されていると指摘しています。ところが、福島宿の町割り絵図では、少なく見積もっても70軒以上もの住戸敷地があることになっています。


表通り側の茅葺古民家を裏手から眺める

厨子造り総二階の主屋の裏手からの眺め

  町割り絵図は、明治初期の図面をもとに幕末の町割りを推定したものです。幕末までに「御宿帳」の記載戸数の2.5倍まで住戸が増えていることになります。この差をどう理解すればいいのでしょうか。もちろん、「御宿帳」と明治初期の町割り絵図のどちらかまたは両方とも記録が誤っていることも考えられます。
  私の考えでは、「御宿帳」に記載された住戸数は宿駅の発足から間もない頃の自前百姓(自立した経営の農民・町民)の戸数で、小前百姓(零細・小作農民)は数に入っていないと見ています。そして、家族の次男三男は、町割り裏手にある耕作地の一角にに住居を建てて住まわせ、やがて農地の開拓開墾が進むにつれて耕作地を当てがって家計や経営の自立化を促したのではないでしょうか。
  次男三男の家計が自立すると、次の代からは本家=分家関係になって、屋敷が東西に隣り合うということにもなったでしょう。


あたかも大商家のように主屋と蔵が並ぶ

  現在の中町では、裏通り側の敷地に家屋がなく、畑作地になっているところも数か所見られます。継承者がいなくなった家屋が撤去され、土地の所有者が変わり、畑作地に転化したものもあるようです。
  あるいは、一方が敷地を買い取って屋敷地を合併して表通りから裏道まで通しで1軒の屋敷地になったところもあったでしょう。こうした変化は、主に明治以降の経過のなかで生じたものです。


細道の湾曲はもともとのこうだったのか?

  

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