■中町の家並みと古民家を探る■
福島宿中町は街区の面積が大きいので、その分、旧街道沿いの家屋の数が多いということになります。
粗壁土蔵は昭和初期までに修築したものか
丹精に修築された白壁土蔵
上町(街並みの南端)から旧街道を歩いていくと、大笹街道の起点を過ぎて少し先の街道東脇に古びた粗壁土蔵が残っています。かなり荒廃が進んでいますが、文化財として貴重なものなので、手入れが望まれます。
ところで、荒廃した土蔵がそのままで残されてるのは、この敷地の住民が土蔵の文化財としての価値を認めながらも、修復のための手立てを講じることができないからでしょう。市の助成や支援が求められます。
■厨子総二階造りの主屋■
福島宿中町には、瓦屋根で厨子総二階の造りになっている広壮な主屋(造りとしては古民家)が目立ちます。これは。1900~1920年代に養蚕が盛んだった北信、とくに北国街道松代道沿いに目立つ建築様式です。
左側の写真にある主屋が、その造りに当たります。厨子二階というのは、棟面の高さがきわめて小さい二階となっている構造です。しかし、二階の屋根は高く、大棟の上に小屋根を施した通風孔が設けられています。
大きな屋根で厨子総二階造り
この建築様式では、一階の天井を高くして通風を良くするとともに外光を取り入れやすくなります。二階は、屋根裏が高いので作業空間を確保できます。一階では何段もの蚕棚を設けて養蚕をおこない、二階では資材を大量に保管し、かつまた――近隣から買い集めた――繭から生糸を紡ぎ出す作業をおこなうことができます。
生糸業者に紡錘生糸として納品することで、繭で納品するよりも高い付加価値を手にすることができる経営で、目端が効き商才を備えた富裕な農家が、建築費の高いこのような主屋を建てて、養蚕から生糸生産までを一貫させた事業経営としたようです。
■長屋門仕立ての土蔵■
この地区には、街道沿いに大きな棟面を向けている土蔵が数多く保存されていて、その多くが長屋門仕立てになっています。
長屋門とは、通りに面した蔵などの建物の棟側の一部として門を設えた構造をいいます。構えの大きな門を組み込みその脇を蔵や作業室とするので、必然的に棟面が長くなり長屋造りの建物になります。
小洒落た修復を施した長屋門
門の部分の造りはこうなっている
門の上が狭く厨子造りとしたもの
同じ長屋門造りでも、開口部=門の位置を長屋の中央部に設ける場合もあれば、左右どちらかの端に置く場合もあります。また、門の上の空間を大きくとって通し二階造りとするか、高さの小さい厨子造りとするかという違いもアあります。
中町は街道表通りなので、江戸時代には門の床には木製や石製の敷居を置いて、門の外と内を峻別し、内側門柱には扉を設けていたはずです。荷車を通すの脇にある通用門でした。ところが、明治以降は荷車や自動車が入れるように改装し、たいていは敷居と門扉を撤去してしまったようです。
それにしても、交通の要衝だった福島宿には長屋門を設えた格式の高い広壮な土蔵が数多くあったということです。これは、同じ松代道沿い北隣の長沼にも共通する特徴です。しかし、長沼は32019年秋の台風豪雨による水害で、そのほとんどが失われてしまいました。
■160年の時の流れ■
ところで、幕末までの福島宿の町割り(町家の敷地区割り)と現在を比べてみると、だいたいは同じように保たれていますが、とくに中町では、敷地が倍くらいになっているところが数か所あります、明治以降、おそらくは子孫が住居を別の地に移したり継承者がいなくなったりした敷地を、商業などの事業に成功して財をなした住民が買収して広げたものと見られます。
一方では、広い敷地から家屋が階梯撤去されて更地・空き地となった場所も目立ちます。栄枯盛衰の1世紀半を経て、今となっては町全体として少子高齢化に直面しているのです。
そういう意味では、明治以降の160年間におよぶ時代の流れ(変化)を観察できる街区でもあります。
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