福島宿中町通り西側の北端には天神社を中心とする境内神域があります。江戸時代の絵図には「天神」とだけ表記があるので、江戸時代にはそこは天神社を祀った境内だったようです。
  ところが現在、天神社の境内には10柱の神社が集められています。天神社以外の社殿や祠のほとんどは、明治以降にここに移設されたということになります。


◆神様たちの集会場としての境内◆



中町のランドマークとなっている天満宮境内の入り口と大鳥居

蚊里田社と伊勢社の前から境内を眺める
【天満宮】


▲天神社の拝殿は重厚な入母屋造りで屋根は銅板葺き(南向き)


▲天神社の社殿は、右から拝殿、幣殿、本殿が配置・連結されている


▲天神社の前から大鳥居と街道を眺める

【八坂社と養蚕社】


▲天神社の右奥に並ぶ八坂社と養蚕社


▲隣り合って並ぶ八坂社(右)と養蚕社(左)


▲養蚕社の社殿はは覆屋(蓋殿)のなかに安置されている

【白山比咩社】


▲天神社の左手みあって、2棟の古い土蔵を背景に立つ白山社の社殿


▲社殿の向かって左前にある小さな石塔が鹿島社

◆天満宮(天神社)◆

  境内には、この社殿と祭神について説明はありません。拝殿の前に神牛が1対置かれているので、菅原道真を祀った普通の天満宮だと見られます。社号の「天満」は、道真が死後に送られた神号の「天満そらみつ大自在天神」に由来すると言われています。さらに天満の由来はというと、『日本書紀』の虚空見そらみつ」からとも、あるいは「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」という伝説からとも言われています。
  拝殿・幣殿・本殿と連なる社殿はじつに風格がある結構です。境内の東側半分に面面して配置してあります。境内全体に対する社殿の位置は偏っています。
  もともとそういう配置だったのか、明治後期の伊勢社などの神社合祀にともなって東側に移動したのかは不明です。勝手に推測すると、元の位置から東に移動したのではないでしょうか。

◆八坂社と養蚕社◆


白壁土蔵風の八坂社の社殿

  天満宮社殿の裏手の東端に社殿が2つ並んでいます、養蚕社と八坂社です。
  八坂社は、京都祇園の八坂神社を勧請したもので、須佐之男スサノオ命と櫛稲田媛クシナダヒメの夫婦神を祭る神社です。神仏習合思想によると、スサノオは、祇園精舎の守り神牛頭天王ゴズテンノウの化身だとも言われています。
  これらの神様は、疫病退散や災害除けに霊感あらたかだとされていて、大きな都市集落や、福島のように街道宿場街など、多数の人びとが往来交流・集住するところに神社として祀られることが多かったようです。福島の夏祭りは、天神様と八坂神に奉納する勇壮なもので、暴れ神輿が有名です。
  八坂社は、往古は福島城の鬼門除けとして、集落の東側の田園地帯――東畑と呼ばれる――、横町の東側にあったそうですが、明治政府の神社合祀令にしたがって明治末~大正期に現在地に移設されました。

  八坂社の左隣の養蚕社は「蚕神カイコガミ」とも「蚕玉コダマ神社」とも呼ばれています。江戸時代末から昭和前期まで福島では養蚕業が盛んでした。
  天皇家(大和王家)は農の繁栄を神に祈る民衆の代表としての地位にありますが、養蚕についても同様で、養蚕社の本宮は皇居にあるそうです。そういう流れで、養蚕社の祭神は伊勢神社外宮の豊受大神です。社殿は明治初期に横町集落の私有地に建立され、やはり神社合祀令に沿って明治42年に現在地に移されたそうです。

  天満宮社殿の裏手の東端に社殿が2つ並んでいます、養蚕社と八坂社です。

白山比咩シラヤマヒメ社と鹿島社◆

  白山比咩神社では、主祭神の菊理媛ククリヒメ尊とともに伊弉諾尊イザナギ伊弉冉尊イザナミも祭神として祀られています。ククリヒメは、『日本書紀』の国づくり神話では、死去して冥界にいるイザナギと現生にいるイザナミとを仲裁仲直りさせる女神です。
  ところで、北陸の霊山、白山は8世紀初期に開かれた修験霊場で、大地に水の恵みをもたらす神(雨乞いの神)とされています。往古、農業が盛んな福島の人びとは、雨の恵みを願って白山社を勧請したのでしょう。天神社境内には1954年に横町から移設されたそうです。
  現在、石垣上の社殿の前には石の鹿島社が祀られています。

天満宮境内の主な神社

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