しなの鉄道の線路の北側、北国街道松代道の西傍らにある多賀神社は、もともとは神代村の支郷として発足した中尾村の人びとが、鎌倉時代後期に創建したものだと伝えられています。 近江の国多賀大社から分霊勧請して建立したのだそうです。やがて17世紀には、神代村も氏子に加わりました。神社は中尾と神代の境の丘にあります。


◆鎌倉時代の創建◆



▲北国街道松代道の西脇にある参道石段は1937年(昭和12年)に建造されたという。石垣はもっと新しいようだ



▲神社は旧中尾と旧神代との境界の小丘(高台)にある


▲正面奥が多賀神社で、右脇にあるのが金刀比羅神社


▲金刀比羅神社は1919年(大正4年)に勧請したそうだ


▲多賀神社の拝殿。大正~昭和期に数次の改修をし、1997年に最終補修。


▲拝殿の背後に本殿があって蓋殿に覆われている


▲金刀比羅神社の横からの境内の眺め


▲多賀神社拝殿脇から南側の丘下の古民家を眺める

  多賀大社の地元、近江では多賀大社は親しみを込めて「お多賀さん」と呼ばれているそうです。祭神は日本の国づくり神話の始原、イザナギとイザナミの夫婦神で、『古事記』では、この二柱の大神は日本の国土、続いて天照大神をはじめとする八百万やおよろずの神々を産み出したと記しています。
  社伝によると、鎌倉時代の1306年(徳治年間)に中尾村が多賀大神を祀って創建したのだとか。このときには多賀社と呼称したそうです。ということは、神代村の南西部で農耕地と集落を開き始めた人びとは、この時代に母村、神代から自立した村落共同体をつくろうとしていたことになります。
  ところで、豊野の南、三才から下駒沢の辺りでは、古代(律令時代)の条理水田遺構が発掘されています。小田切から地付山を経て上今井辺りまで続く山裾丘陵では、太古から水田などの農耕地開拓が試みられたようです。石村、神代村、中尾村の水田と集落の開拓、そして神社の創建は、古代から連綿と続く開拓開墾の歴史のなかに位置づけられるようです。

  社伝によると、神社創建から300年間は多賀社は中尾村の村社だったのですが、江戸時代前期の1631年(寛永年間)、神代村から氏子に加わりたいという願い出があって、以後、中尾と神代の両村で多賀社を維持してきました。


大鳥居は1979年に再建、そのさい参道も改修された

多賀神社の扁額

  神代村には伊豆毛神社があるのですが、由緒も古く非常に格式の高い神社で、石、三才、南郷、長沼など15村におよぶ広域に氏子をもつので、神代村としては身近な守護神を祀りたいと望んだのでしょう。
  ところが、1804年(文化年間)には神社への献灯の順や位置(序列)をめぐって中尾村と神代村は相争い、神代は飯山藩、中尾は天領に属していたので折り合いがつかず、結局、江戸幕府の評定所での訴訟にまで発展したようです。私にはどうでもいいことのように見えますが、祭神への親近感が昂じて氏子としての優位序列の争い――膨大な手間と費用をかけた――になってしまったようです。それだけ、両村から熱心に信奉されたということなのでしょう。
  祀られている神様たちも、信者氏子のメンツ争いにはさぞや困惑したことでしょう。評定所の裁定がどうなったかはわかりませんが、神道奉納順(位置)は交互の交替制になったのではないかと思います。


多賀神社の内陣: 扉の向こうが本殿

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