■多賀神社前から観音堂下まで■
では、立町通りの景観を探索してみましょう。現在、旧北国街道松代道は「しなの鉄道」によって遮断されています。そこで、ここでは、多賀神社の前から観音堂の下まで北に歩いて立町通りの風景を追いかけることにします。鉄道線路から南側の街道と観音堂から上の探索は別の機会におこなう予定です。
ここでは、多賀神社東脇から観音堂下までを立町通りと呼ぶことにします。これが北国街道松代通の遺構です。旧街道の両側の町割りは、横町に比べるとよほど残されています。理由は、本陣や脇本陣、番所など、大きな屋敷がなかったために、敷地区画を分割することなく昔のままにして、住宅家屋を改築ないし新築してきたからだと見られます。
さて、多賀神社の東脇から観音堂下まで立町通りは約400メートルの道のりです。神社前から旧松代道に沿って北北東に90メートルほど進んだところ県道を横切り、そこから70メートルほどで石村堰用水を渡ります。
石村堰用水は、この通りに残されている史跡ともいえます。言い伝えでは、すでに鎌倉時代に開削されていたと伝えられています。鎌倉時代の豊野で山裾の丘陵地帯に水田や集落が開かれたという歴史は、聖林寺の伝説と結びついています。
昭和期につくられた大久保池という溜め池の上に宇山と呼ばれる山腹の高台があります。そこに室町時代まで宇山聖林寺という大きな寺院があったそうです。鎌倉時代の1262年(弘長年間)に、出家していた北条時頼が回国視察の途次、神代村に小さな千手観音像(約16cm)を授けたことが機縁となって七堂伽藍を備えた油沢山聖林寺という大寺院が創建されたのだそうです。
石村堰用水は立町通りを東から西に横切る
火の見櫓の先で飯山街道横町通りと出会う
この物語は、北条得宗家がかかわるような農村開拓・開発の波が山間の豊野にも及んでいたことを示すものではないでしょうか。
その頃は石村の開拓建設が本格的に始まった頃合いで、その支郷・新開地として神代村が形成され始めた時代かもしれません。鎌倉時代に新田開拓を始めた人びとは鳥居川から水を引いて、できるだけ用水堰の勾配を緩やかにしながら石村まで水を引いて新田開発を進めたのではないでしょうか。神代で本格的に水田開拓がおこなわれるのは江戸時代になってからだと見られます。
飯山藩は1664年に野田喜左衛門を川除奉行に任命して、飯山藩領での用水堰の開削と新田開発をおこなわせたそうです。石村には石村堰用水の水利権があったので、神代村での新田開発では石村堰を整備し直して流水量を大きくしたり分流したりして、水利権争いを避けるようにしたと見られます。
問屋跡に残る茅葺古民家の主屋
石村堰を過ぎると、立町通りは緩やかな上り勾配を感じるようになります。用水路から140メートルほどで飯山街道が西に分岐するT字路にいたります。その30メートル先に飯山街道横町通りがあって、さらに70メートル坂道をのぼると観音堂の石段参道に出会います。だいたいここから香代坂の急傾斜になっていきます。
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