江戸時代には千曲川右岸の福島宿から川田宿までの間は、大半の場所を湿地帯が覆っていたようです。千曲川の氾濫のたびに旧街道の道筋は変更されたと見られます。したがって、北国街道松代道は国道403号(谷街道)とは相当に違った経路を通っていたはずです。 昭和中期からの土地改良・用水路整備によって保科川と赤野田川の流路と水系は大きく改造され、旧い街道や村道の痕跡は失われてしまいましたが、どうやら領家の集落を通っていたようです。


◆昭和期の豊かな農村風景をとどめる集落◆

 
領家の集落: 赤野田川の右岸に広壮な昭和期に建てられたの主屋と土蔵が並び、豊かな農村の姿をとどめている


  保科から川田におよぶ谷間の扇状地の西側では、水路が網の目のように結びついていて、無数の沼や低湿地が広がっていた。自然堤防とは、増水氾濫で波状的に押し寄せた水が引くときに河畔に土砂を積み残してできる微高地帯のこと。そういう微高地に街道や集落がつくられる。


▲大棟両端に鯱を載せた武家屋敷のような長屋門付きの土蔵


▲小径の左脇は地蔵庵跡で、戸長役場があった跡地



▲地蔵庵の境内の名残りをとどめる石仏・石塔群


▲養蚕に適合した造りの総二階造りの主屋と土蔵


▲村落の道が集まる辻の脇には石神・石祠・石塔が並ぶ


▲旧街道跡と見られる小径は南に向かう


▲重厚で広壮な昭和期の家屋が集まった集落中心部


▲赤野田川河畔に並ぶ昭和期の建物(主屋と土蔵など)


▲リンゴ園に面して石垣の漆喰土蔵が軒を連ねる風景

 集落の端は湿地帯に面しているので、河川の氾濫に備えて石垣で嵩上げした基盤に土蔵を建てた。千曲川河畔に多い造りだ。
 このように千曲川河畔には湿地帯が続いていたため、北国街道松代道の建設は1611年頃から始まり、1622年に松代領に真田信之が移封入部してからようやく本格的に進んだと見られる。

◆中世の領主館がある城下街の跡か◆

桝間が止門の奥には大きな主屋がある

  この地区(集落)の名称が領家となっているのが、すごく気になります。というのは、一般に領家とは、平安後期から室町前期頃まで荘園を統治する有力な豪族領主家門を意味するからです。
  地名から推定できることは、往古、保科川と赤野田川に挟まれたこの辺りに有力な領主がいたということ、そしてその居館や城砦があったであろうということです。
  領家から南東に5キロメートルくらい離れた保科川の上流の山裾に清水寺という真言密教の古刹があり、近くに条里遺構もあるので、この一帯には平安時代中期には荘園が開かれていたことは確かでしょう。長い歴史の積み重なりがあるのです。


地蔵庵跡と戸長役場跡の標柱・説明板

  千曲川はもとより支流の保科川も赤野田川も暴れ川で氾濫洪水を繰り返してきて、領家集落の周囲もまた湿地帯に取り巻かれていたようです。ところが、領家はそのなかでも安定した丘陵地高台で、水没することはあまりなかった場所で、領主の本拠が置かれていたところだったのではないでしょうか。
  千曲川右岸は武田家滅亡の後、北信濃を占領した上杉家が1580年代には北信濃から塩尻や木曾、伊那方面に連絡する軍道=街道を開削していたそうです。江戸幕府道中奉行による北国街道松代道の整備と宿駅建設は1611年以降になったようです。
  犀川以南の今日川中島と呼ばれる一帯もひどい湿地帯で、丹波島を通る善光寺道の整備もなかなか進捗しなかったので、松代道に代わって実質的に北国街道の本道になったのは1730年以降だったと見られています。松千曲川右岸を往く代道は善光寺道よりも早く1580年代に建設されたものの、やはり湿地帯が広がっていたため、街道と宿駅の建設はほかの主要街道に比べて遅くなったということです。
  おそらく氾濫が繰り返されるたびにいくつもある分流が河道を変えてしまい、自然堤防の上に開削された街道が水没して、自然堤防の場所が移ってしまったようです。比較的に安定していた経路は、山裾や尾根の上を往く道でした。その山裾沿いの平坦地には、今でも蓮田の跡が点々と残っています。分流の跡です。
  領家集落の隣にある川田宿の位置は、初期には現在地よりも400~500メートルほど千曲川寄りにあったのが、ひどい水害を受けて現在地に移設されたそうです。

◆松代道は領家を経由していたか◆

  そんななかで領家地区は水没の被害を受けにくい高台だったと見られます。北国街道松代道もおそらく18世紀以降は領家の集落を通っていたと推定できます。
  さて、荘園を支配する領主家の統治拠点があったことから、古来、この村落の文化の水準は高かったと見ることができるでしょう。
  水田耕作や用水路の建設、畑作の作付けや栽培方法、江戸時代末からは養蚕の技術でもほかの地方よりは進んでいたでしょう。今でもここには広壮な屋敷が集まっています。養蚕のための総二階造りで、大棟に小屋根を載せた通風孔が設えられた主屋建物が土蔵とともに残っています。
  集落の中心部には、明治時代、廃仏毀釈の後に地蔵庵の建物に集落行政を管理する戸長役場が設けられた跡も史跡として残っています。長役場跡から南に延びる小径がおそらく旧松代道の遺構だと見られます。

◆川田宿に向かう道◆

  ここから川田宿に向かう松代道の経路は、おそらく旧長野電鉄線路跡の手前で直角に西に曲がる道筋ではないでしょうか。あるいは鉄道によって遮られ、その下に埋没したのかもしれません。いずれにせよ旧街道は川田駅跡方面に向かっていたようです。
  千曲川の氾濫による広範な水害と水没は昭和中期まで発生しました。鉄道は水没しにくい自然堤防上に盛り土を施して建設されたと考えられます。したがって、旧街道は川田駅跡を通っていたのではないでしょうか。

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