旧善光寺街道沿いの桑原の街並みの中ほど北側に宝珠山浄光庵という曹洞宗の禅寺があります。集落の住民の墓地は以前のままに残されていますが、今は住職はいないようです。
  長い歴史をもつ集落にある格式高い寺なのですが、やはり少子高齢化の影響によるものでしょうか。寂莫のなかにたたずむ寺を訪ねてみました。


◆古い地蔵堂をもとに龍洞院の塔頭支院として発足した◆


善光寺街道から少し参道を入ったところに山門がある




▲旧街道に面して北側に参道入り口の門柱が立つ


▲本堂前から山門を振り返る


▲山門前の六地蔵と地蔵菩薩立像


▲どっしりした本道:茅葺屋根に金属板を葺いてある


▲大棟に鯱を乗せた瓦屋根に修築された萬象庵(旧地蔵堂か)
 一般に寺院堂宇の大棟に鯱を乗せるのは、江戸時代に藩侯によって特別に庇護を受けたという歴史がある場合です。その頃には、茅葺屋根だったはずですが、昭和期・平成期の修築にさいして、そういう歴史が顧みられた可能性があります。
 そういう事績がないと、龍洞院の末寺であるこの寺が随意に屋根に鯱を載せることはできないはずです。


西側の道路からの境内・墓地の眺め

◆古い地蔵堂が起源だという◆

  往古、桑原にあった地蔵堂が起源だといいます。その地蔵堂の由緒来歴はまったくわかりません。
  江戸時代中期(明和7年:1765年頃)、小坂の大寺院龍洞院の15世住職が――たぶん隠居所として――その地蔵堂に住んで、かつて龍洞院の境内寺領にあった塔頭、常光庵として再興したと伝えられています。
  しかしその後、寺は無住となってしまい、龍洞院が末寺として安永年間(1770年代頃)まで管理していたと見られています。やがていつともなく、読みは同じでも、浄光庵という綴りになったそうです。
  龍洞院の境内にあった常光庵は、17世紀前半(寛永年間)に龍洞院の住職洞春が禅庵として開創したと伝えられているとか。ところが、元禄時代に焼失してしまったといいます。
  桑原集落の浄光庵も、末寺ながら龍洞院の和尚が開いた常光庵の衣鉢を継ぐ禅庵として格式は高かったようで、有能な禅師が輩出して本寺龍洞院の役僧に赴く者もが相次いだようです。

◆在地の旧領主とつながっているか◆

  ところで、浄光庵の本堂など堂宇はどれも真南を向いています。善光寺街道と古い宿駅としての桑原集落の家並みの町割り(南東を正面とする敷地割り)や家屋の向きとは違っています。
  一般に寺院や神社は東西南北に正対するように堂宇を建立するのが本来だという見方があります。とはいえ、街道に沿った町割りの家並みに倣う場合も多いようです。現在、この寺が無住であるせいなのか、境内に立ってみると、若干の違和感を感じます。
  その違和感の背景には、室町後期頃に開かれた善光寺街道と桑原宿の建設よりも前から、浄光庵の前身だった地蔵堂があったのではないかという疑問があるのです。
  つまり、史料はないけれども、かつて古い有力寺院の境内に地蔵堂があって、その遺構として地蔵堂が残されたたのではないかということです。あるいは豪族の館があって、その屋敷内または隣接地に祀られた地蔵堂があったのかもしれない、という妄想がはたらくのです。

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