医王院長福寺は命運の変転を経て廃寺となってしまいましたが、薬師如来は桑原の西側の山腹の薬師堂に祀られたそうです。今でも薬師池(溜め池)の畔に薬師堂があります。
  今回はその薬師堂を訪ねます。平安時代には、その一帯に真言密教の修験霊場としての有力寺院があったのではないでしょうか。溜め池の下の果樹園のなかにある仁王門から歩いて参詣します。


◆善光寺平の南端を見おろす丘の上の薬師堂◆


仁王門から眼下に善光寺平の南にある桑原集落を一望。桑原から田園地帯を挟んで八幡地区とさらに千曲川。




▲リンゴ園のなかに鎮座する仁王門


▲阿吽の金剛力士像: 長福寺が開創された頃には、仁王門ははるかに大きく、金剛力士像もずっと大きかっただろう


▲仁王門をくぐると背後に急斜面の果樹園が続く


▲急勾配の上に溜め池がある。杉並木は参道の痕跡か。


▲薬師池の周りには樹齢60年以上の桜が並ぶ


▲水面の対岸に薬師堂が見える


▲お堂の背後には急斜面が迫っている


▲石仏・石塔群の奥に薬師堂。


▲薬師如来像は別所に保管されているらしい。

  北信濃では戸隠に神仏習合の格式で天台密教の顕光寺という堂塔伽藍を備えた巨大寺院があって、幕末まで宝光院から中ノ院を経て奥ノ院まで参道と門前町集落が続いていたそうです。明治維新の廃仏毀釈政策によって、寺院堂宇群と宗教都市は跡形もなくなり、宝光社や中社、奥社という神社に強引に造り変えられて、奥ノ院の宿坊群は解体され、中社に雨天させられてしまいました。
  諏訪湖畔の諏訪大社の上下4社にも、幕末までそれぞれ天台と真言密教の神宮寺という巨大寺院があって、五重塔や伽藍堂宇を備えた宗教都市を形成していたそうですが、やはり明治維新の廃仏毀釈によって寺院は破却されてしまいました。
  桑原にも、現在の天満宮から佐野まで多数の堂塔塔頭が並んでいた――高野山のような――宗教都市集落があったかもしれません。


境内にあるのは薬師堂だけでやや物寂しい

◆聖山と猿ケ馬場峠は古来修験の地◆

  奈良時代につくられた東山道のひとつが聖山の裾、猿ケ馬場峠を通っていたとも伝えられています。それが善光寺街道の原型だそうです。
  佐野の背後の山岳一帯には、奈良時代から密教修験の霊場が設けられていたと見られます。密教修験は古代の山岳信仰の系譜を引いています。そして、8世紀末に最澄や空海が学僧として遣唐使に随行して中国に渡り、彼の地で密教体系を学び万巻の仏典・書物を携えて帰国しました。
  仏教経典だけでなく医学薬学、建築学、農学・農業土木について当時に最先端の科学知識がもたらされて研究され、天台と真言の密教が体系化されるとともに、学僧たちの活動によって多くの知識や技術が日本各地に広まりました。
  塩田・別所にほど近く古道に近接する桑原にも、古代の仏教と学僧たちによる知識や技術が伝わったと見られます。佐野から聖高原におよぶ地帯にはいくつもの密教寺院(修験霊場)が開かれたようです。この地帯に古来、溜め池が多も、とくに真言密教の学僧たちによって農業土木技術がもたらされたことが大きな理由ではないかと見られます。
  おりしも仏教思想がもっぱら大和王権の権威を裏打ちする宗教から脱して民衆の支援し救済する実践的な文化活動へと転換していく時期ともなっていました。民衆に医療や農耕知識を施す活動は、薬師如来を祀る密教寺院を中心として広がり、民衆が現生で享受する利益りやくとなり始めました。


小ぶりだが端正なお堂だ。近年修築したか。


内陣の様子。須弥壇に厨子が載っている。

◆医王・薬師如来の信仰◆

  薬師如来信仰と医療は密航寺院をつうじて民衆の間に広がっていきました。おりしも、10世紀末には佐野川下流部に桑原郷が開かれていて、桑原から聖高原にいたる地帯の密教寺院の活動とも結びついたのではないでしょうか。
  すでに佐野には薬師如来を本尊とする真言密教の――七堂伽藍を備えた――有力寺院、医王院長福寺が開かれていたようです。ただし、佐野という地名が現在の佐野区を意味するのか、佐野川流域の山間を意味するのかは不明です。
  平安末期(仁平年間)に冥海という僧が薬師如来像を祀った小堂を設けたのは、現生利益に結びつけて施療しながら、薬師如来と仏教思想をわかりやすく民衆に伝えるためだったのではないでしょうか。

◆仁王門から薬師堂まで歩く◆

  さて、往古の長福寺の境内がどこで薬師堂と仁王門がどういう配置だったかはわかりませんが、現在佐野の山腹斜面にある仁王門から溜め池の畔に建つ薬師堂まで歩いてみましょう。
  仁王門は桑原と善光寺平南端を見おろす山腹斜面の果樹園地帯にあります。見たところ、昭和期に復元された造りのようです。左右・阿吽の金剛力士像がいつごろ造られたものかは不明です。西方を見上げると、急斜面の上に薬師池(溜め池)があって、その西畔に薬師堂があります。標高差は30メートル以上ありそうです。
  薬師池の方向から小さな用水路――普段は水がない――が引かれていて、仁王門の土台の石垣から流れ落ちるようになっています。水路を直線的に遡行するように、道のりで500メートル近く急傾斜をのぼっていくと池の畔のお堂にいたります。往古、石段参道がったようですが、今はリンゴ園のなかの草地農道だけです。
  今では、舗装道路をクルマで薬師堂前まで行って参詣するのが通例のようで、仁王門から歩いてお詣りすることは想定していないようです。人びとの生活様式はすっかり変わってしまいました。

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