前回は桑原宿の西町を天満宮前まで歩きました。今回は、天満宮の辻から東に向かって緩やかな下り道を歩きます。
  その旧街道沿いに並んだ街区をどのように呼んだのかは、史料が手に入らないので今のところわかりません。上町・中町・下町とでも呼んだのでしょうか。この街通りの中央部分には本陣(問屋兼務)の柳沢家の広大な屋敷――主屋・客殿・多数の蔵など――があったそうです。


◆町役人の広壮な屋敷跡が並ぶ街通り◆

 
桑原宿の街並みの中ほどに掲示されている、旧本陣柳沢家住宅の写真(撮影2000年10月):千曲市教育員会提供



▲佐野川を東に越えると桑原西町で、古い城下町があったらしい


▲街道に面して旧本陣柳沢家屋敷の土塀と土蔵が続く


▲本陣の主屋に向かうための大きな長屋門


▲長屋門の奥に控える主屋は昭和期に養蚕用に修築したか


▲豪農の屋敷だったと見られる敷地が街道沿いに並んでいる


▲総二階の広壮な建物は養蚕向けの造りだ


▲こちらも広大な屋敷地を土塀が囲んでいる


▲ここも村役人の屋敷だったか、街道に面した間口が広い

◆間の宿桑原の歴史を探る◆


土蔵脇の薬医門は松代藩公用のためのもの

  善光寺街道の公式の宿駅の役割は稲荷山に移されたものの、桑原は松代藩専用の伝馬宿駅(間の宿)としての地位は保ち続けました。
  1694年(元禄7年)には、伝馬屋敷数77軒のうち、町役人31軒を除いた46軒で伝馬役を務めていたそうです。街区は上組・中組・下組の3つに分かれて、10日交替で役務の担っていたようです。
  旅籠が何軒あったのかは不明ですが、本陣以外の休泊施設で松代藩の役人や藩士を除く一般の旅人が止まったこともあると伝えられているので、屋敷地が広い何軒かには宿泊用の家屋があったと見られます。

◆かつては城下街から中心都邑に◆

  中世の城下町を土台として形成された桑原郷は、千曲川左岸の佐野川扇状地のおおかた――小坂・大田原・慈眼寺・金井・東光寺など――を包含していたそうです。
  ことに旧街道脇の大鳥居から治田神社上之宮を経て、小坂集落、龍洞院までは合間を置いて家並みが続いていたものと推定できます。上記の小村集落群――小坂・大田原・慈眼寺・金井・東光寺・五反田・郷沢・馬場・苑塚・坂ノ下――の住民の多くは、1602年頃に稲荷山が街道宿駅に指定されて街建設が始まると稲荷山に移住させられたそうです。
  そうすると、桑原集落はこれらの集落群を束ねる中心的都邑で、近隣一帯の郷村には、現在わかっているだけで7つの寺院があったと見られています。


漆喰袖壁で総二階造り町家。大棟に屋根付き通風孔が設えてあるので、養蚕用に修築したようだ。


街道脇の大鳥居は上之宮への参道入り口

◆幕末~昭和期に養蚕で栄えた◆

  すでに見たきた歴史からして、桑原集落には有力な地主や豪農、豪商がいくつもあった理由が理解できます。
  そうなると、この富裕な集落の住民たちの知的・文化的水準はかなり高かったと見ることができます。幕末期から昭和期まで桑原では養蚕が盛んになりますが、ほかの地方に比べて養蚕技術の習得や経営の改良・改善にもいち早く取り組んだと見られます。
  家並みのなかには豪邸と言えるほどの重厚・広壮な昭和期の家屋が目立ちます。総二階造りの広壮な和風住宅は風通しを良くして養蚕に適した建築様式です。そういう家屋を平成期まで維持できるほどに裕福だったということです。


一階は縦密格子戸。江戸時代には旅籠か商家だったと見られるが、昭和期に養蚕用に修築したようだ

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