今は桑原西区の県道脇に天満宮があります。これは、数奇な運命を経て住民たちの切望を体現して再建された社です。
  伝説では、平安時代の10世紀末、この地の豪族だった桑原氏の祖先が、天満宮はを勧請して創建されたそうです。ただし、真言密教の佐野山医王院という密教修験霊場がそれ以前からあって、その境内寺領の一角に祀られていたという伝承もあるようです。


◆天満宮は古い寺院の跡地に祀られている◆


天満宮の玉枝には江戸時代、石垣が向かい合う桝形があった。ここで街道は直角に南に曲がっていた。
その頃、西に向かう道は作場道(田畑に向かう細い農道)だけだった。




  古代のこの地の豪族桑原氏は、現在の佐野薬師堂(薬師池)の辺りに七堂伽藍を備えた大きな寺院を建立し、背後の丘に天満宮を祀る堂舎を設けたたそうだ。


▲現在の県道390号の様子: この道路は昭和期に建設された。江戸時代にはここに石垣が施されていて、一般の旅人の通行は阻まれていた。
 したがって、長福寺の境内寺領は右(北)に5メートルほど広がっていたと見られる。県道建設ために、境内跡地は削減されたようだ。
 ただし桑原の住民は、背後の丘の田畑に農作業に行くために通行できる細い農道(作場道)を利用していた。街道はここで左(南向き)に曲がり、口留難所の検問を受けた後、佐野川を渡って中原を経由して猿け馬場峠をのぼっていった。


▲善光寺街道を往く旅人は、ここで左(南)に曲がり口留番所の脇でふたたび直角に西向きに曲がった。


▲春の天満宮の様子。


▲冬の天満宮の様子。


▲一間流造りの社殿で、格子のなかに坐像を祀る造りになっている


▲この絵図は絵師がこの一帯の地形や寺院跡地を検分することなく描いたものと見られる。善光寺街道との位置関係はまったく間違っている。
 とはいえ、桑原本郷後に長福寺があった頃の景観には近いといえる。というのも、本郷の長福寺堂宇群の背後の佐野村の丘陵斜面に薬師堂が建っていたからだ。
 絵図をクリックすると拡大絵図にリンクし、詳しい分析と解説を読むことができます。⇒解説記事

◆古代の豪族が創建した天満宮◆

  桑原西区の県道から直角に道が分岐するところは枡形跡です。現在、その辻の南西角地に天満宮があります。
  伝承では、天満宮は998年(平安時代 長徳4年)に当地一帯を支配していた桑原氏の祖が、土師氏=菅原氏祖霊神の分霊を勧請したのが起源なのだとか。実際には、その家門が桑原氏の祖先かどうかは不明です。
  江戸中期、1689年(元禄2年)に現在地に遷座されたそうです。その頃には、高僧慧心が彫ったという座像が祀られていたようです。
  ところが、1908(明治41年)に明治政府の祠堂合祀令によって坐像は治田神社に遷され、天満宮本殿自体も佐野の医王院長福寺に遷移されてしまいました。
  やがて1963年(昭和38年3)、長福寺が廃寺になると天満宮再興への機運が高まり、ようやく1975年(昭和50年)に現在地に天満宮が再建立されました。その後修築して現在は流造りの社殿となっています。

◆医王院長福寺と薬師如来◆

 天満宮がある区域の旧街道脇には佐野山医王院長福寺跡であることを示す案内板が立っています。「佐野薬師」の由緒に関する情報のひとつです。
  佐野薬師をめぐる伝説では、奈良時代の神亀年間(8世紀前葉)、行基手彫りによる薬師如来像を本尊として佐野近隣の山間に密教修験の霊場がつくられたそうです。それは真言や天台の密教が体系化される以前のことで、やがて真言密教の寺院となったようです。
  平安末期の1150年頃(仁平年間)、冥海という僧がその薬師如来を祀った小堂を設け、医王院として創建したそうです。これが医王院の開山です。冥海は中国伝来の医術を学んだ真言の学僧で、現生利益の思想によって民衆に医療を施したり、農業土木の技術を駆使して農耕地開拓や村落建設を指導したと見られます。
  桑原(佐野)は、平安後期から真言や天台の密教の修験や仏教典の研究盛んで「信濃の学海」と呼ばれた塩田とほど近いので、上記のような経緯はありえたでしょう。

◆薬師如来の数奇な運命の変遷◆

  ところが、1183年(寿永2年)、平家打倒のために挙兵した木曾義仲と善光寺平の平家勢力との戦乱の兵火で堂宇は焼失して医王院は廃れました。その後、1404年(応永11年)に大和の国長谷寺の隆海が佐野薬師を祀った佐野村の小堂に参籠したのち堂塔伽藍を再興建立し、佐野山医王院長福寺を創建したのだとか。長福寺は長谷寺の末寺となりました。
  1684年(貞享元年)、火災で堂塔伽藍は焼失し、7年後(元禄4年)、松代西条の開善寺の貫翁法印が桑原本郷に地蔵堂を建立し、地蔵菩薩を本尊として再建した長福寺を末寺としたようです(開善寺伝承)。そして近隣の佐野村に薬師如来を置いて薬師堂を再建したそうです。薬師堂は間口6間、奥行き7間という重厚なものだったとか。
  その後、1873年(明治6年)に火災で本郷の長福寺は失われ、1887年に地蔵堂、4年後に庫裏が再建されたようです。ところが、やがて荒廃したらしく、1962年(昭和37年)に篠ノ井塩崎の長谷寺に併合され、本尊の薬師如来も移されたのだとか。


  というわけで、医王院長福寺と薬師如来は幾多の荒廃、再興再建、移転の来歴伝承があって、混乱しています。私の当て推量としては、桑原西区の跡地は源平合戦の戦禍で諸室するまで医王院があった場所ではないでしょうか。
  それから200年間以上も空白がありますが、鎌倉から室町中期にその廃寺跡から佐野川河畔にかけて、桑原氏の最初期の城砦ないし城館と集落(城下街)が構築されたものと見られます。
  さて、その薬師如来像は今、ここから西方に見える丘の上、桑原佐野地区の薬師池の畔の薬師堂にあって――保管場所は別所かもしれない――、毎年の灌仏会(花祭り)では、薬師堂に多くの参詣者が訪れて疾病――とくに眼病の――快癒を祈るのだそうです。

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