境内の説明板によると、臨済宗の禅刹、慧日山開眼寺は、1654年(慶安年間)に松本深志の乾瑞寺の末寺として開創されたそうです。明治期に当時の住職が帰農したため、現在は妙心寺直系の末寺となっているとか。
  現在地は千曲市八幡中原の集落の南西端に迫る北向き尾根裾の高台です。本堂となっているのは大悲閣と呼ばれる観音堂です。


◆荘厳された木彫の三秘仏が寺宝◆

 
高台の境内・本堂には石段参道をのぼることになる。冬の陽を浴びる北向きの観音堂。



▲高台の境内寺領はあたかも城館・城砦のような結構だ


▲妻入入母屋造りの北向き観音堂は禅宗様式の匂いがある


▲本堂脇には風雅な造りの庫裏・禅堂が寄り添う


▲堂宇群の並びと境内の様子


▲前方が入母屋造りで後方が寄棟造りで、信州の山寺に多い様式


▲観音堂(本道)と庫裏禅堂は渡殿廊で結ばれている


▲庫裏禅堂前から東向きに境内を眺める

◆来歴には謎がいっぱい◆


質実な禅刹の趣きに満ちた参道入り口

  慶安年間の寺院開創は、松本の乾瑞寺第一世の大禅師、龍天宗登――中国から渡来した高僧か――だということですが、開山ではないようなので、さらに古い前身の寺院があったのかもしれません。
  大悲閣――聖観音が慈悲の心で民衆に救済の手を差し伸べることから、観音堂がこう呼ばれる――という観音堂の造りは、妻入の正面が入母屋造りで向拝が伸びていて、背後は寄棟造りとなっています。1691年(元禄年間)に第二世の祖英により建立されたのだとか。
  建立当時から昭和期までは茅葺屋根だったと見られます。別所の北向き観音と同じで、天の北斗星を望む方向に本尊が向いているのかもしれません。その本尊は聖観音菩薩像ですが、なんと脇侍が阿弥陀如来と地蔵菩薩だそうです。
  仏教世界の曼陀羅体系では、完全に解脱して天界にいる阿弥陀如来の方が当然ながら地位は上で、通常は観音菩薩が地蔵菩薩や勢至菩薩などとともに脇侍となります。


小ぶりだが端正な観音堂の後ろ姿

  ということで通常はありえない構図なので、伝承での誤りか、聖観音を本尊とするために本尊-脇侍配置関係を組み換えたのかもしれません。
  言い換えると、本来はこの寺の前身の寺院または別の場所にあった――荒廃あるいは廃寺となった――寺院に祀られていた阿弥陀三尊像を臨済宗の僧たちが再興したさいに、その寺院の本尊に移し換えたということかもしれません。
  説明板によると、三体仏像は江戸時代初期に京都の仏師によって彫られたものと推定され、藤原時代の古様式――平安後期の寄木造で定朝式と呼ばれる様式か――だそうです。当時の上級貴族に好まれた洗練された造りなのだとか。
  また、本堂前部は格天井となっていて、中国の人物画、動植物画など77枚からなっていると説明されています。
  江戸中期にこれだけの本尊仏像とお堂を造ったということは、この集落の豊かさと歴史の厚みを体現しているといえます


石段を登り切った境内端から見おろす

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