上の写真が示すように、正見寺の参道石段の手前はまさに城郭の桝形虎口そのものの形になっている。これは寺院をこの段丘上に移設したさいに、往古の城郭跡の地形と遺構をそのまま利用したためだろう。
▲城郭のような土塀の下の駐車場にかつて法学寮があった
▲石段をのぼって振り返ると、城の段郭の門のように見える
▲庭園の奥に本堂(1759年再建)が控えている
▲重厚な本堂のつくり(妻側の結構)
▲欄干で囲まれた濡れ縁回廊と向拝が威厳を印象づける
▲1997年に再建された鐘楼(元の梵鐘は1720年鋳造だった)
▲1997年に再建された鐘楼
▲修築を経ているが、段郭のような石垣が城を想起させる
▲本堂の背後の駐車場からの眺め |
◆北信での真宗台頭の拠点だったか◆
街道と境内を仕切る漆喰土塀。
土塀に囲まれて直角に曲がると石段
寺伝によると、正見寺の創建は1473年で、甲斐武田氏の家臣窪小弥太正兼が蓮如上人の教化を受け、修行得度後に、現在地よりも鳥居川に近い低い段丘面に開山したようです。当時の寺の山号は窪山または久保山で、発足時は窪家の祖霊菩提を弔うための堂庵だったものと見られます。
その後、時流に乗ったのか隆盛して有力寺院に成長したと見られます。そうなるほどに当時の浅野村――古い城下街の遺構に形成された集落――は、豊かな都有だったようです。
千曲川流域の北信濃一帯、ことに長沼を含む旧大田郷では、室町後期から戦国時代末にかけて、浄土真宗の僧侶たちによる仏教復興運動――荒廃した寺院を浄土真宗の寺として復興する動き――が活発におこなわれたようです。
創建時、寺院は古くからの街道の東側、つまり現在地よりも下の河岸段丘面にあったのですが、その頃の街道は往古の軍道または城郭の大手道の跡だったようです。
さて、戦国時代から江戸時代初期にかけて正見寺は発展して、広い境内の一角に法学寮という教育研究機関を開設し、数多くの僧侶を育成するようになりました。法学寮は、現在、駐車場となっている場所に置かれていたようです。
やがて、本堂や鐘楼などの堂宇は現在地、つまり街道よりも上の段丘面に移設されました。そして、本堂への参道入り口は、城跡の地形と遺構をそのまま利用して城郭の桝形虎口の形にし、土塀で取り囲む結構に築いたそうです。
この異説改修にさいして古跡山という山号に改めたもの見られます。それは、窪家の菩提寺から一般民衆の崇敬を集める寺院となり、まさに古い城郭と城下町の跡地に境内と堂宇伽藍を構えるようになったことを宣明したものと考えられます。
◆いくつもの塔頭支院があった◆
ようやく1640年代、飯山藩の統治体制ができ上ると、軍道跡を下敷きにして飯山街道が建設されていきます。
その頃の浅野宿は、古い時代の城下町である古町と上町、下町の3つの街区から形成されていたと推定できます。やがて人口と住戸が増えていくと、下町は中町(仲町)となり、その西側に西組、さらに北西側に下組という新開地の集落が加えられたようです。
中町(旧下町)街区のほとんどは正見寺を中心とする寺領境内で、街道の東側の段丘面には正見寺に帰属するいくつもの塔頭支院が並んでいたようです。そのひとつは今も明円寺として現存しています。やがて宝蔵院が隣に移設再興されたと見られます。
現在は正見寺の駐車場の南西側に県道399号が通っていますが、この道路は明治以降に建設されたもので、江戸時代には街道は西組の明円寺の鐘楼の脇で北西に曲がっていました。街道はそこから下組、神田へと向かい、白鳥神社(現浅野神社)がある丘の下で西に曲がり、神代に連絡していました。
というわけで、旧中町の大方は正見寺の寺領で、それに宝蔵院が加わり、さらに字母地蔵堂と十王堂を擁する寺院――寺号は不明――があって、広大な寺町となっていました。
戦国時代から江戸戦記にかけて正見寺は、長沼栗田町の西厳寺と並んで北信濃における浄土真宗による古刹再興運動の中心的な担い手だったと見られます。千曲川対岸の旧福島宿、井上など大笹街道沿いに上州まで真宗の寺院が点々と続いています。
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