浅野の秀越山明円寺は、江戸時代前期までは越後谷口村にあったそうですが、元禄時代に正見寺の境内に移され、やがて塔頭のひとつになったと伝えられています。 ◆江戸時代には正見寺に属す塔頭だった◆ |
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明円寺の鐘楼の東脇に県道がつくられたため、県道の東側の本堂がある境内と形としては分離してしまった |
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▲庫裏居住棟(左)と土蔵造りの本堂 ▲庫裏居住棟は古い造りを維持している ▲県道側から庫裏居住棟を見る ▲漆喰土蔵造りでどっしりとした本堂 ▲集落南側(裏手)の水田から境内、本堂、庫裏居住棟を眺める |
◆江戸前期(17世紀中)は越後に◆
明円寺は江戸時代前期には越後谷口村というところにあったそうです。その頃の寺号が同じだったのかは不明です。親鸞が越後と信濃を巡歴して信者を増やしたということから、両地方の僧侶や寺院の往来は活発だったようです。 ◆新道建設で分断された境内◆ ところで、この寺の鐘楼は現在、本堂や庫裏がある境内とは県道によって隔てられ、境内が分断されてしまっています。こうなったのは、正見寺から明円寺が独立して鐘楼が1882(明治15年)年に建てられた後、1906年になって、県道(中野新道)が建設されたからです。
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