浅野の秀越山明円寺は、江戸時代前期までは越後谷口村にあったそうですが、元禄時代に正見寺の境内に移され、やがて塔頭のひとつになったと伝えられています。
  その頃に北信濃と越後とは、親鸞の巡歴以来のつながりで浄土真宗の寺院や僧侶が活発に交流していて、信濃から越後への寺の移転やその逆の動きがいくつかあったそうです。また上野こうづけ(上州:群馬)方面との結びつきも強かったようです。


◆江戸時代には正見寺に属す塔頭だった◆

 
明円寺の鐘楼の東脇に県道がつくられたため、県道の東側の本堂がある境内と形としては分離してしまった



▲庫裏居住棟(左)と土蔵造りの本堂


▲庫裏居住棟は古い造りを維持している


▲県道側から庫裏居住棟を見る


▲漆喰土蔵造りでどっしりとした本堂


▲集落南側(裏手)の水田から境内、本堂、庫裏居住棟を眺める

◆江戸前期(17世紀中)は越後に◆


道路を隔てているものの重厚な造りの鐘楼

  明円寺は江戸時代前期には越後谷口村というところにあったそうです。その頃の寺号が同じだったのかは不明です。親鸞が越後と信濃を巡歴して信者を増やしたということから、両地方の僧侶や寺院の往来は活発だったようです。
  この寺院は1700年(元禄13年)、正見寺の寺領に移り、やがて1766年(明和3年)に旧街道の南側に堂宇を構え、正見寺の塔頭になったと伝えられています。
  その頃には、旧中町から西組までのほとんどは寺町で、明円寺のほかにも正見寺の塔頭支院はこの辺りにいくつも並んでいたようですが、史料が残っていないので、どういう寺があったのかわかりません。
  1704年に越後名立出身の閑了という僧侶が正見寺にやって来たということですが、優秀な学僧で法学寮で教育指導にあたったのかもしれません。やがて、正見寺寺領内に塔頭としての明円寺を任されたのかもしれません。
  閑了は、明円寺の浅野への移転とは別の時期に正見寺に入っているということなので、明円寺の住職を継ぐようになったのは業績を認められての結果ではないでしょうか。

◆新道建設で分断された境内◆

  ところで、この寺の鐘楼は現在、本堂や庫裏がある境内とは県道によって隔てられ、境内が分断されてしまっています。こうなったのは、正見寺から明円寺が独立して鐘楼が1882(明治15年)年に建てられた後、1906年になって、県道(中野新道)が建設されたからです。
  ともあれ、鐘楼建立のさいに梵鐘が群馬県の大笹から運ばれたことは、それまでに北信濃の千曲川沿い地方と上州方面との間で浄土真宗の僧侶、寺院、門徒宗の結びつきが深く交流があった歴史を物語っています。


農家古民家に見えるが、じつはお寺

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