曹洞宗の華厳峰宝蔵院は旧飯山街道の参道入り口から長い石段をのぼっ高台の上に主な伽藍堂宇があります。街道からはずい分奥まっているという印象です。
  本堂の背後に回ってみると、江戸時代には、隣接する正見寺も含めて堂宇群の背後には寺領の森林がひろがっていたのではないかという感じです。ところが、鉄道建設で樹林帯が削られてしまったものと推定されます。


◆古くは山間の真言密教の寺院だった◆

 
旧飯山街道脇の石段上に1対の石門柱が並んでいる。山号の部分は華厳峰となっている。



▲高低佐4メートル以上の段丘崖をのぼる石段


▲石畳の参道から門柱と街道方向を振り返る


▲銅葺き屋根で入母屋妻入造りの本堂は重厚


▲本堂向拝の前から隣の正見寺本堂が見える


▲墓地の西側を鉄道が通り、脇に本堂裏手の門柱がある。
 鉄道建設のために正見寺と宝蔵院の寺領境内の樹林は大きく削られたようだ。こういう場合、その分の寺領境内は政府に没収され、鉄道業者に払い下げられた。

◆奇妙な山号の禅刹◆


飯山道から50メートルほど奥まっている高台境内

  旧街道西脇に建つ1対の門柱の向かって左側に「華厳峰宝蔵院」と刻んでありますが、山号の部分が華厳峰となっています。山号というのは、古代中国の仏教寺院がだいたい山域にあって寺領は○○山という号が冠されていたのが起源だそうです。
  普通、峰というのは山の一部分ですから、山号を名乗るほどの規模ではないと謙譲しながらも、それでも山域に修行の場を構えているという自負もあるということなのでしょうか。
  現在は曹洞宗で中野氏延徳の松山寺の末寺となっていますが、古くは堤北谷(現在の川谷地区か)という山間にあった真言宗の寺院だったそうです。
  真言密教の霊場ということで、本尊は秘仏の大日如来だとか。そしてこの如来様は火伏霊験あらたかなことから、火伏大日如来と呼ばれていたそうです。例年4月22日は大日如来の開帳がおこなわれ「おだいにちさま」と呼ばれれいるのだとか。
  宝蔵院は元来、北谷と呼ばれた場所にあったようですが、武田と上杉の戦での兵火で焼失し、本尊は千曲川に沈められたものを浅野村の住民が拾い上げて、ここに祀り寺の再建の機縁になったとも伝えられています。

◆今では失われた寺堂◆

  宝蔵院の裏手(放蕩側から北側にかけて)には共撰所跡地がありますが、そこから正見寺の裏手までは江戸時代、これらの寺院の寺領の樹林帯でした。共撰所跡から宝蔵院の北東側にかけての場所には、江戸時代に太虚庵と呼ばれた地蔵堂――尼僧庵主がいた――と十王堂があって、これらは宝蔵院とは別の寺院に属していたそうです。


本堂は妻側に向拝があって表玄関

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