今回は、旧飯山街道神代宿の伊豆毛神社から出発して浅野宿まで、往時の旧街道の痕跡を探しながら歩きます。
  伊豆毛神社の東側には高台丘の尾根が張り出しているので、飯山街道はこれを北に回り込んで上り下りし、北に蛇行してきた浅川の北岸に近づき、小瀬地区を経由して浅野村神田に向かっていました。


◆散見される昭和期の景観を訪ねる◆

 
小瀬の集落に残る古民家が並ぶ地区。手前の家屋は無住のようだ。



▲伊豆毛神社から北東に向かって丘をのぼる旧街道


▲昭和期の家屋はあまり残っていない


▲トタン葺きに改修した茅葺古民家


▲集落ん北側に迫る丘の尾根。北に大久保池と水神社がある


▲上り坂の途中で伊豆毛神社方面を振り返る


▲幟ざまの先で右(東)に曲がって小瀬地区に向かう


▲小瀬地区、丘の下の平坦地に古民家が数軒集まっている

◆浅川の見おろす丘裾の途◆

  豊野町豊野(旧神代村)から浅野までいたる地区は、善光寺の背後から北東方向に延びる低い山並みの南面の丘陵地帯に位置しています。
  この地帯の南側を流れる浅川は、山並みの背後の飯縄山の南東側の中腹の高原がら何本かのしりゅが流れ出て合流し、浅野の南東で千曲川に注ぎ込みます。


旧街道脇に立つ石仏群。道祖神や馬頭観音など。


旧街道に一町ごとに立っていた馬頭観音のひとつ

  18世紀前半までは浅川は、最大の主流が長沼の南で千曲川に合流していたのですが、18世紀の中頃に松代藩による河道改造工事で、ほぼ現在のように浅野の南東で千曲川に合流するようになえりました。昭和期の河川改修と土地改良によって、この傾向が一段と強まりました。
  旧神代宿から旧浅野宿までの一帯は、その北側で髻山を頂部とする低い山並みが千曲川と浅川の谷間に下っていく緩やかな丘陵斜面にあるのです。
  松代藩の大規模な河川改修工事よりも100年以降前に飯山藩によって開削・制定された飯山街道は、南に張り出した丘の尾根裾の緩い谷間を縫いながら、比較的に平坦な南東向き斜面を通っています。
  今回歩く伊豆毛神社から浅野神田までは約2キロメートルの道のりで、普通の街道の宿駅間の道のりに比べてずい分短くなっています。それというのも、もっぱら飯山藩が利用するだけの飯山街道には大きな集落は少なく、そこそこの規模の集落は千曲川以西では神代と浅野くらいしかなかったからのようです。
  そういう事情から、神代村と浅野村は2村でひとつの宿駅の役割を担うように「相の宿(相宿)」として指定されました。つまり、半月交替で藩御用の駅逓――荷駄輸送の継ぎ立て――業務を担当するようになったのです。
  ただし、飯山藩侯や高官が江戸出府で街道を利用するさいの休泊サーヴィスは、荷駄輸送の継立て業務を担当しない宿場街の村役――主に庄屋――が引き受けることになったそうです。そして、浅野宿には継立て業務を努める問屋はなく、庄屋がその任務を果たしていました。駅逓業務を担い続けてきたことから、明治以降には庄屋家が郵便局となったそうです。

◆消えゆく歴史的景観◆

  さて、明治以降、昭和後期まで、神代村は周囲の村々を合併して豊野町となって、行政や経済で上水内郡の中心的な都邑となったため、高度成長期から市街地化が進み、長野市街のベッドタウン化してきました。農耕地に割り込む形で住宅地が増大して、純然たる農村風景はしだいに縮小してきました。
  狭くるしく家屋が建て込んでいる旧飯山街道沿いとは別に幹線道路が建設され、江戸時代からの集落は取り残される形となりましたが、伝統的な家並みはどんどん消えゆくsy区名を避けられませんでした。
  というしだいで、伝統的な電安風景や家並み風景は旧街道沿いでも数えるほどしか残されていません。それでも私は、往時の偲ぶ名残をとどめる小さな風景を探りながら歩くことにします。

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