蟹沢の丘の龍澤寺と一体化した背後に境内と社殿が置かれています。江戸時代までは神仏習合の格式だったので、鎌倉前期に龍澤寺が創建された頃からともにあった神社だと見られます。
  神社の口承についても、明治政府が押し付けた国家神道思想の影響を除去して来歴を検討してみることにします。


◆神仏習合の格式が残る境内遺構◆

 
丘斜面の境内に3段に構築された石垣は1815年に集落の住民たちが積んだと伝えられている



▲石垣上の拝殿(1828年建築)は寄棟造り(1937年修築)


▲拝殿尾奥に綿殿を介して本殿の蓋殿(覆い屋)がある


▲本殿を覆う蓋殿は切妻造りになっている


▲拝殿手前の境内草地。背後は龍澤寺の庫裏。


▲境内東端の杉並木。背後はリンゴ園。


▲拝殿前から大鳥居を眺める。参道は果樹園に囲まれている。


▲社殿の背後は急斜面で杉林。丘の上には果樹園が広がる。


▲社殿の背後の杉林の段丘上から境内と鳥居を眺める

◆寺院ともに開創された神社◆


18世紀末に再建されたと見られる庫裏

  八幡宮をめぐる言い伝えには、とくに明治維新後の政府による強硬な宗教政策の影響が強く浸透していると見られるので、来歴の実際のところはわかりません。1871年に明治政府に神域・社領を上納したという言い伝えは、明治政府の強硬策に従うしかななかった状況を物語るものです。
  それにしても、龍澤寺の文物史料も度重なる火災で失われたので、あくまで推定の物語となります。
  江戸時代までは日本の神社は神仏習合の格式で運営され、仏向伝来の後、はじめて文字によって自然信仰である神道の意味や由緒が記録され体系化・定式化されたのです。仏教寺院は自然信仰の思想を受け継いていたので、宗家のさいに寺域にある地の神を祀ることになっていました。
  龍澤寺は1212年(鎌倉前期)に赤沼に創建されたそうです。八幡宮またはその前身となった神社・祭神が寺域地(または近隣)にあったものと推定できます。今でも赤沼には八幡群を起源とする大田神社があります。
  木曾義仲が平家追討のために北越をめざしたさいに、大田郷で戦勝祈願のために社を建てたという事績は、たぶん事実に近いと見られます。
  おそらくそういう由緒によって龍澤寺は寺域と神域が一体化した境内に八幡社をあらためて創建したと見られます。
  古代から藤原宗家の荘園があった長沼・赤滑にあって鎌倉前期に創建された寺院とともにある神社ということで、格式が高いことを認められて、南北朝時代には信濃守護小笠原貞忠から社領を与えられたそうです。

◆古代の銅鏡が出土したか◆

  寺院は創建後に何度も移転を繰り返しましたが、そのつど由緒ある八幡宮も祀られてきたのではないでしょうか。この蟹沢の丘尾根でも。   時代を上杉・武田の戦争時代にさかのぼると、武田軍に追われた島津氏は長沼領から逃れて、現在地の西側の大倉山の城砦に陣を据えて上杉家に支援を求めたことから、大倉村は上杉家側の勢力圏となったようです。
  そういう事情で、龍澤寺と八幡宮は上杉家によって手厚く庇護されたようです。そしてこの地の小領主丸井氏の一族が宮司として祭祀を司っていたそうです。
  幕藩体制下では飯山藩の統治下に入りましたが、飯山藩の財政事情で社領の与奪増減があったようです。


リンゴ畑が続く丘の向こうは千曲川の峡谷

  ところで伝説では、八幡社の起源として、出土した一面の銅鏡を御神体としてがホンダワケノミコトを祀ることになったという物語があります。そこには史実が少し含まれているような気がします。
  この辺りの山腹には6~7世紀の地位山古墳が数多く残されています。その時代、大和王権を含む有力な大王たちは覇権争奪で優位を得るために、中国から手に入れた銅鏡――最も有名なのは三角縁神獣鏡――を地方の豪族に与えて権威を浸透させ受容させました。渡来人系の有力豪族(王族)は自ら銅鏡を製造したとも言われています。
  そういう銅鏡がこの近隣で古墳遺構や遺跡から出土したことを契機に神社を祀るという事態はありうることです。

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