飯山街道から東の丘尾根の上に見える寺院です。龍澤寺の前身となった寺院は1212年(建暦年間)に大田郷赤沼村に創建されたと伝えられています。おそらく信州で最も古い浄土真宗の寺院のひとつです。
  寺伝に記されているだけでも開創後に3回所在地を移転し、寺号も3回変えたそうです。波乱万丈の来歴ですが、歴史の古い寺院としてはさほど珍しいことではありません。


◆リンゴ園が連なる丘の中腹のとんがり屋根の寺院◆

 
リンゴ畑に囲まれたなだらかな丘を中腹までのぼる参道の先に境内と堂宇がある



▲蟹沢坂下の集落から龍澤寺に向かう石畳参道の入り口


▲境内は丘を背後にしてあたかも中世の領主館のような趣


▲明治中期に再建された本堂。雪深い里に合わせた寄棟の屋根。


▲明治後期に再建された鐘楼


▲リンゴ園が連なる丘の南向き斜面に位置する境内


▲本堂脇から境内庭園と庫裏を眺める


▲背後の丘の上から本堂を眺める。屋根の個賠は急峻だ。


▲境内脇の果樹園から千曲川隆起を見渡す

◆鎌倉前期の創建、移転が続く◆


18世紀末に再建されたと見られる庫裏

庫裏の背後の樹林は八幡宮の社叢と一続き

  寺伝によると、常陸の国の武士、土屋重行が親鸞と出会って明慶という法名を授かり、鎌倉前期の1212年(建暦年間)、水内郡大田庄赤沼村に浄土真宗の真浄寺を創建したそうです。
  それから360年余り経過すると(天正年間)、千曲川の水害が頻発したことから16世紀の末頃に浅野村堀地区に寺を移転し、寺号を当時の住持の法名に合わせて善仲寺に改めたそうです。その頃、武田信玄が北信濃を攻略し、赤沼の隣の長沼に城砦を築き、上杉謙信と戦いを繰り返していて、しかもやがて武田家が織田・徳川の連合によって滅ぼされたので、水害に加えて戦乱から逃れてのことかもしれません。
  というのも、浅野の堀地区もまた千曲川と鳥居川との合流地に近い低湿地と隣り合わせで、ここでも水害が頻発したからです。
  結局、十数年ののち(16世紀末頃)、大倉村の丘の上に移って寺号を龍澤寺に改めたそうです。1688年(天和年間)に飯山藩に届け出た由緒書では、開基を善仲として大倉村を所在地としていたそうです。現在の所在地は蟹沢ですから、場所は同じで村境が変わったのか、さらに移転したのか・・・詳細はわかりません。
  それよりも前の寛文年間に蟹沢村が大倉村から村分けされているので、おそらく移転した可能性が高いと見られます。


庫裏などの建物の背後は八幡宮へと続く

◆繰り返された火災で寺宝が焼失◆

  寺域境内は蟹沢の丘の中腹に安定しましたが、1782年(天明年間)と1880年(明治期)に火災で堂宇を失ってしまいました。現在の堂宇としては、1890年に本堂を、1905年に鐘楼を再建したそうです。庫裏は造りが古く、18世紀末から19世紀はじめにかけて再建された構造を保っていると見られます。


金属板葺の下は奥信濃の寺院特有の茅葺屋根

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