江戸時代の後期に「寝覚め床」が有名な景勝地になるはるか以前(江戸前期)から、寝覚には中山道の街道交通の拠点として立場茶屋と集落があったそうです。上松宿を出てまもなくの程近い地点にもかかわらず。
  このことは、寝覚のすぐ南を流れる滑川が非常に危険な難所だったからだと思われます。水量が多いこの急流を越えるのが大変で、時間がかかるので、馬方や歩行人足など街道輸送業者の休憩所、中継所として立場を設けたことがわかります。


◆立場茶屋の集落から成長した街◆



旧中山道の越前屋旧館前からカツラの巨樹と津島社・大宮社の辻を眺める



▲国道19号から旧中山道にのぼる坂道


▲左手が越前屋の旧館で右手が「たせや」の遺構


▲中山道が国道19号だった頃には繁盛をきわめていた旅館越後屋


▲1869年建築の「たせや」の広壮な古典的な町家造り


▲2つの店舗遺構の間の坂道はなかなかクールな風趣だ


▲街道の上手からカツラの巨木を眺める。根方に2つの社殿がある。


▲勢至菩薩と金剛明王(庚申)を祀る石仏が並ぶ


▲大宮社と津島社(牛頭天王社)が連立する社殿


▲大カツラの三叉路の西脇の古民家


▲吉野の集落に連絡する木曾古道の遺構を改造した林道

 寝覚に降りてくるこの木曾古道は、風越山の山腹にある吉野集落に連絡し、さらに荻原の東野集落にも連絡していたという。この古道は、木曾川や滑川の増水氾濫にさいして迂回して風越山の山腹を往く杣道で、木曾川河畔を通らないで上松宿や福島宿にいたる道だったそうだ。

◆越前屋と「たせや」◆

  寝覚のノ床を訪ねた後には、寿命そば越前屋の脇を東にのぼる坂道を200メートル歩いてみてください。するとT字路に出会います。それが旧中山道です。
  この辻の辻の両側に2棟の古い町屋が向かい合っています。南側には越前屋の旧館、北側には「茶屋たせや」の遺構が残されているのです。


のぼってきた小径を振り返る


越前屋の大モダン風と出梁造りを折衷した造り

  越前屋は1624年(寛永元年)の創業で、はるばる越前(福井地方)からやって来て上松の郊外で集落づくりが始まったばかりの寝覚に店を構えたそうです。
  小径を挟んで向かいの「たせや」は、それからおよそ40年後に美濃中津川田瀬村からここに移り住んだ先祖が立場茶屋(休憩所)として開いたそうです。街道に面した間が口広く、賓客をもてなす格式の高い茶屋・旅籠となりました。やがて、参覲旅の大名の休泊所になることもあったそうです。
  現在まで保存されている「たせや」の町家は1869年の建築だとか。
  ともに出身地を店の名前にしたということです。
  中山道と主な宿駅は1602年に徳川幕府道中奉行の指示で発足し、近隣の上松宿も17世紀のはじめに建設が始まりました。その近郊の寝覚でも、木曾代官山村氏の指揮下で――年貢の減免などの好条件を提示して――街道沿いの新開地の村落として移住者・入植者を求めていたそうです。
  街道=宿駅制度の整備・確立には、三代将軍家光の頃に参覲交代が制度化されたことを見ても、半世紀かた1世紀ほどもかかったと見られます。とすると、越前屋と「たせや」は相当に早い時期に寝覚に移住して集落の建設に参加したということになります。


「たせや」の本棟造りを基本にした入母屋屋根


「たせや」は藩主が休泊することもあったという

◆大カツラの下は祈りの場所だった◆

  寝覚集落のランドマークは街道脇に立つカツラの老巨樹です。根元にある説明板によると、幹の周囲は4.1メートルだそうです。近隣の住民に聞いたところ、樹齢は400~500年だとか。
  説明板によると、昔、この上で発生した山崩れのさいに流れてきたカツラの幼木が根づいて成長したという説があるようです。
  その山崩れというのは、滑川の土石流による土砂崩れ(山津波)ではないでしょうか。
  カツラの樹齢からすると、室町晩期ないし戦国時代から江戸時代初期の間に滑川の大規模な土石流が起きたのかもしれません。


本棟出梁造りの重厚な造りの古民家

  カツラの根元は三叉路になっています。木曾谷の段丘面に沿って往く旧中山道から林道が東向きに分岐していく交差点です。
  こういう辻は、古来、人びとの祈りの場となってきました。寝覚でも、カツラの東側の根元に大宮神社と津島神社の小さな社殿が連なっています。大宮神社は集落ごとに祭神が違っている場合が多いので、この祭神はわかりません。津島社は牛頭天王とも呼ばれ、スサノオが祭神です。社殿の前、街道側には2基の石仏が立っています。
  街道に立って向かって左側が勢至菩薩碑で、右側が金剛明王碑です。勢至菩薩は、観世音菩薩とともに阿弥陀如来に脇侍する菩薩で、菩薩のなかで最高の地位と力をもつとされています。金綱明王碑は庚申塔のことです。
  勢至菩薩碑があるとなると、往古にはこの近くには阿弥陀堂や仏堂があった可能性が高いということになります。明治維新の神仏分離令・廃仏毀釈令によって寺院が破却されたのかもしれません。


みかりの陸橋から寝覚地区を展望する(右下の道路が国道19号)

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