今回は、往古の生活や文化の痕跡を何も見つけられなかった旅の報告となります。小野原から吉野まで木曾古道の痕跡や往古の集落の痕跡を探しました。
  高度経済成長期から始まった変化が、それ以前の生活や文化の痕跡をすっかり消し去ってしまったのです。もっとも、それは過酷な労苦から逃れ豊かさを求めた私たちの選択の結果で、あたかも別荘地のように美しく整頓された端正な山間の村落がありました。


◆現代風の端正な農村だが、歴史の名残りは見いだせなかった◆



風越山(右端の峰:標高1699m)の背後に木曽駒ケ岳の秀峰が見える吉野の里



▲寝覚地区から吉野の背後に迫る「なすび山」を望む


▲小田の集落を往く林道(木曽古道の遺構か)


▲小野の滝の200m北:尾根の急斜面を切通して開削した林道


▲釜中沢を渡ったところで府営還る


▲北に向かう林道は釜中沢の渓谷の上の崖縁を往く


▲ここが林道の最南端のカーヴ。林道は折り返して北に向かう。
 カーヴの突端を小さな沢が流れ落ちている。


▲急斜面を滝のように流れ落ちる小沢。木曾川左岸の旧中山道から古道はこの沢沿いにのぼってきたか。


▲吉野に向かって北に進む林道は切通して林道を拡幅したか


▲端正な別荘地のような家並みと水田地帯(前野の南手前)


▲吉野「青嵐の碑」脇から風越山となすび山(右端)を眺める


▲吉野の集落には古民家は見当たらない


▲吉野の前野集落 伝統的な造りで新築した住宅


▲花崗岩質の大石が積み上がっている滑川に河床(吉野橋から)

 河床には大きな石のほかに、護岸のためのテトラポッドの破壊された破片や壊された上流の堰堤の破片(コンクリート片)なども転がっている。
 大きな石が流水で転がされて衝突したなら、どんな人為的な構築物もひとたまりもないだろう。
 急斜面をどこも滝のように流れ下る滑川の破壊力のすざまじさを感じる。往古には、この川をどうやって渡ったのか、想像もつかない。

◆小野原から織田を経て吉野へ◆

  寝覚や小野原の住民のなかには、風越山の麓にある吉野地区について熊野の山岳信仰――吉野=熊野の古道――と結びつけて語る人がいます。木曾古道と熊野権現・山岳信仰とが結びついていることは、木曾の人びとには自明の歴史なのです。その吉野は、寝覚の隣に位置しています。
  というわけで、私は木曾古道の跡と見られる林道を辿って吉野の集落まで行ってみようと思い立ちました。そこで、釜中沢を小野の滝から200メートル上流で渡る舗装林道を辿り、木曾古道の痕跡を探しながら吉野の里を訪ねることにしました。


小田集落の観音堂


集落で保存している木彫の仏像

  その林道の経路は、小野原の老人ホーム跡の北側で旧街道から東に分岐し、小田集落を通り、釜中沢を渡っていったん南下して折り返し、釜中沢の谷をのぼって前野集落を経て吉野にいたります。
  小田の集落の住民に尋ねると、釜中沢の渓谷沿いに吉野までのぼっていくので、おおむね木曾古道の跡を辿るように建設した林道だということでした。その人に場所を教わった観音堂にお詣りしてから、その林道を辿ってみることにしました。
  釜中沢の谷の前後で林道の下を眺めると、たしかに往古、小野の滝から急斜面をのぼってくる杣道があったかもしれないと感じる地形でした。とはいえ、林道はさらに南側にある小さな滝沢まで南下し、そこで折り返し北上して前野と吉野に向かいます。地形から判断すると、この折り返し地点まで、旧街道から急斜面を辿る細道があったのではないでしょうか。
  小野の滝よりも200~300メートル手前(南東)で旧中山道から分かれた脇街道が、沢沿いにのぼってこの古道に連絡したのではないでしょうか。どちらの場合も、旧街道から高低差20メートル以上をのぼることになります。それが木曾古道だったのではないでしょうか。しかし、鉄道建設でこの連絡路はすべてなくなってしまいました。
  舗装林道が建設されたのは昭和中期ではないかと見られます。それ以前、釜中沢を越えて南に緩やかに下る区間は、尾根が張り出していて道幅が1メートルもなかったようですが、今は山側斜面が切り通され、道路はクルマの通行ができるように拡幅されています。その代わり垂直に近い擁壁になって、石垣が施されています。重機を動員してつくったものでしょう。
  折り返し地点から道のりにして800メートルほど林道を北北東に進むと、林道はふたたび釜中沢を渡ります。この辺りから吉野まで水田地帯となっています。
  かつては不規則な形の狭い棚田が連なっていたのですが、1980年代末から圃場整備が進んで、今では長方形に整えられた大きな面積の圃場が広がっています。トラクターなど機械化された耕作作業に適合させるためでしょう。ただし、斜面なので棚田状態は変わらず、圃場を分ける畔の段差が大きくなってしまい2メートル近いところが多くなりました。今後、稲作の担い手の高齢化が進んだ場合、畔の除草・保全などの圃場管理が大変になっていくでしょう。


山林を抜けると水田地帯となる


造りは古民家風だが、山小屋のような風情だ

◆歴史の痕跡が見当たらない山里◆

  ところで釜中沢の流路は、林道と交差する地点から上流部は、風越山の西側山腹から西向きに流れています。風越山の西麓の2つの前哨峰の谷間を流れています。2つの峰のうち、北側の峰を「なすび山」と呼ぶそうです。
  この集落の高齢者によると、なすび山南麓の谷間を「西ノ窪」と呼び、ここには平安時代から続く集落があって木曾古道の要衝だったのですが、この村は跡形もなく消滅してしまったそうです。
  木曾古道(林道)のひとつが、古来、風越山の中腹を南北に縦断して吉野から東野まで連絡していました。そして、釜中沢沿いに西ノ窪集落を経て吉野まで続く道があったそうですが、この道もなくなってしまったようです。
  さて、なすび山の西麓に広がる水田地帯で、舗装林道は前野と呼ばれる集落を経て吉野集落に入ります。その家並みには伝統的な本棟出梁造りの家屋も目立ちます。とはいえ、古民家という趣ではなく、近年改築または修築された真新しい建物という外観です。

  吉野の中心部は整った長方形の大きな面積の田圃が続いています。水田地帯を抜ける舗装道路は幅が広くなり直線的な道筋になります。圃場の整備と道路の改造がおこなわれたようで、往古の集落や木曾古道の痕跡は見つかりません。きわめて現代風の農村風景となっています。
  水田地帯と集落のなかには、寺院や神社など、歴史を印象づける景観はありません。稲作の機械化など営農や生活をしやすい農村づくりが進んでいます。

  吉野から寝覚に帰るため吉野橋を渡って滑川を越えました。橋の上から見ると、宝剣岳の山頂直下から始まる滑川が花崗岩の岩壁を切り崩して運び、積み上げた河床と主流の勢いを見ると、往古、この危険極まりない川をどうやって渡ったのか、大きな疑問が湧きました。

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