国鉄中央西線の時代の複線化工事によって、荻原の地形はずい分変わってしまいました。集落南東の墓地の脇を通るJR中央西線の下に、昭和中期まで観音堂があったそうです。鉄道工事で解体撤去されました。
  今では、鉄層東側の斜面の墓地の一角に小さなお堂として再建されています。周囲には墓標のほかに多数の石仏が集められています。往古、この辺りは普段たくさんの人びとが参集する祈りの場だったようです。


◆その昔、有力な寺院があったのか◆



線路わきの山裾斜面に並ぶ多数の石仏群。往古、この辺りは荻原の人びとの祈りの場だった



▲昭和中期まで鉄道線路の辺り十一面観音堂があったという


▲観音堂はかつての位置から20メートル以上山側に再建された


▲再建されたのは20年ほど前らしい


▲六地蔵が並んでいる。左端は馬頭観音。


▲これらは馬頭観音で近隣の街道沿いから集められたか


▲達道を見おろす壇上に並ぶ墓標とお堂


▲お堂は古びてきて風景になじんできた

 ところで、「観世音」とは、民衆の声(世の音)を聴き取り、世俗の生活を観る菩薩という意味だそうです。

◆変わりゆく祈りの場◆

  1970~80年代、木曽郡上松町辺りでは国鉄中央西線の電化・複線化工事が進められました。これによって線路は幅十数メートルにわたって高さ2メートル近く嵩上げされ、周囲の地形は大きく変わりました。
  荻原では集落の東側、ことに墓地から鹿嶋社・香取社参道の辺りの地形がつくり変えられました。この辺りには、真壁氏の所領だった頃の城下街集落の跡(埋蔵遺構)があるのかもしれません。鉄道工事のさいに埋蔵文化財の発掘調査がなされていたら、と悔やまれます。
  今に残る痕跡や伝承から、歴史を推定し往古の様子を想像してみましょう。


木枠のなかの石仏、本尊の十一面観音

  昭和中期まで、この辺りには十一面観音を本尊とする観音堂があったそうです。観音像を収納していた箱には、貞享3年(1686年)と記されていることから、お堂の創建は江戸初期と見られるそうです(『上松町誌』第2巻参照)。
  この観音堂は文政年間まで「大悲殿」とも呼ばれていたとも伝えられています。大悲殿とは、主に観世音菩薩などの菩薩を祀った、かなりの規模を持つ堂宇を意味するので、ここには十一面観音を祀る堂宇のほかにも建物があったものと見られます。
  観音堂をこのように称するのは、真言または天台の密教寺院、あるいは禅宗寺院に見られる事例です。したがって、この場所にか近隣に七堂伽藍を擁する有力な寺院があった可能性があります。
  またその昔、観音堂の傍らには竹林庵と呼ばれた尼僧庵があったそうです。庵主の尼僧の今に残る墓碑には「正徳2年(1712年)」と刻まれているそうです。これもまた、その寺院に属していたものと考えられますが、明治時代になくなったようです。


経王(般若心経)石字奉納塔と観音堂

  相当の規模の有力寺院がこの地または近隣にあったであろうと推定する根拠は、観音堂には上記の十一面観音像のほかに、木製の阿弥陀如来像(寛保年間)、千手観音像(文政年間)、木彫寄木造の十王像全部(寛保年間)などが保管されていたことです。
  これらはとても上記の堂庵で収まるはずのものではなく、いくつもの堂宇があったはずです。
  荻原の言い伝えでは、観音堂には地区の高齢者が集まる法会、たとえば涅槃会、彼岸、灌仏会、盂蘭盆会などが頻繁に催されていたということです。集まる信徒は、宮戸、荻原の集落の住民だったそうです。
  これらの村落の江戸時代の戸数を考えると、40人以上は集まったと推定され、往古の観音堂は、それだけの信徒が集い祈り、茶菓を喫することができる規模・広さを備えていたと見ることができるでしょう。

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