今回は、宮戸の集落から旧中山道跡につくられた舗装道路を北上して、串ケ下を経て荻原沢を渡るところまでの探索を報告します。
  旧中山道の跡は、荻原沢渓谷の220メートルほど南で鉄道線路をくぐるトンネルの辺りでやはり失われてしまいます。おそらく鉄道の下に埋もれてしまったと考えられます。したがって、荻原沢をどのように渡ったのか、その道筋や橋などについてはまったくわかりません。


◆木曾川を崖下に見おろして歩く◆



分岐点の段丘面に石仏群がある。多くは馬頭観音。道路建設のさいにここに集められたようだ。
画面で左に分岐して谷をのぼる小径が旧中山道の跡らしい。




▲石仏は6基あるので、かつては集落に6軒の世帯があったらしい


▲仮説橋よりも上流では谷が崩落していて木曾古道は跡形もない


▲谷を越えてから崖縁まで降りてくる小径


▲木曾川を見おろしながら崖の縁を北に往く道路


▲左手の竹藪の下は切り立った崖で、木曾川との高低差は約70m


▲ここでも小さな沢谷を回り込むように越えていく


▲地井さん沢を回り込むと、その先は下り坂になる


▲ここまで下ると、鉄道殿高低差は20メートルくらいになる


▲この先には家があって、道は行き止まりになる。
 左手の土手の上が鉄道の路盤となっている


▲行き止まりの手前で鉄道の下のトンネルをくぐる


▲荻原沢の渓谷を越えていくJR中央線の鉄道橋梁


▲荻原沢の左岸を風越山に向かってのぼっていく林道

 この林道は木曾古道の遺構に沿ってつくられたもので、風越山の西側の中腹にある東野まで達し、その後、南北に尾根を迂回して吉野まで向かう。
 地元の人の話では、往古、木曾川が増水氾濫して中山道が利用できなくなった場合に、木曾古道を通って上松宿、さらには福島宿にまで迂回していたそうだ。
 風越山は、中央アルプスの宝剣岳から西に伸びる稜線の西端に盛り上がった峰で、そこから木曾古道の杣道は、木曾駒ケ岳の西側の何筋もの稜線を縦断して福島宿や日義郷に連絡していたという。

◆木曾川左岸の崖沿いの旧街道◆


大半は馬頭観音だと思われる

  宮戸に流れ下る沢は蛇抜け沢です。ふだんは流水量がごく小さいのですが、勾配がきついので、大雨の後に大小の規模の土石流を引き起こしてきました。2019年の台風豪雨の直後にやはり土石流が発生したため、大がかりな改修工事が施されて、林道の路肩や橋がつくり直されました。

  舗装道路から東に分岐して沢に沿ってのぼっていく林道は、木曾古道に連絡していた道らしいのですが、鉄製の仮設橋よりも上流部では谷が崩落して道の痕跡すら見つかりません。今は木曾古道に向かう経路は絶たれています。
  沢の南岸で東に分岐する道が往古の中山道の跡と見られます。江戸時代には、――幅が狭まっているとか、谷底が浅いとか――渓谷を安全に渡れるところまで遡って、そこで丸木橋や投げ渡し橋を利用して沢を越えました。
  幕末まで、中山道は崖に近い場所を避けるために、谷沿いに道のりで50メートルくらいのぼって、そこで橋を渡ったのでしょう。沢を越えてからまた沢沿いを下ることになります。
  この小径を少し上がった西脇に、下の舗装道路を見おろすように石仏群が並んでいます。舗装道路を建設するさいに旧中山道の道脇に立っていた石仏をここに集めたのでしょう。往時は1丁(108メートル)ごとに馬頭観音が置かれていたのです。昭和40年頃まで、集落の家ごとに石仏を奉納する場所が決まっていたそうです。
  谷の北側には3軒の住宅がありますが、現在、住人がいるのは1軒だけになっています。


この林道を集落の下を北に向かって歩く


この先に小さな沢が刻んだ谷がある

  宮戸の集落の辺りでは、旧中山道の跡につくられた舗装道路と谷底の木曾川との高低差はおよそ70~80メートルです。路盤から下は切り立った崖です。したがって、左手(西側)に谷底の木曾川を見おろして歩くことになります。
  旧中山道の跡に建設された舗装道路は、自動車が通列ように幅2~3メートルほどです。ところが、江戸時代の旧街道はだいたい幅が2尺から3尺。まれに広いところで1間(1.8メートル)近くあったようです。狭い道を崖下を見おろしながら歩いたのです。高所恐怖症の人は通ることができなかったでしょう。
  江戸時代の人びとは幼少時から、こういう杣道を通ったり吊り橋を渡ったりする生活をしていて日常的に訓練されているので、現代人のような高所恐怖症というものは自然に解消されていたのでしょう。そうでないと、生き延びることができませんでした。


右手は集落の共同墓地


旧街道は鉄道路盤の下に埋もれているようだ

◆鉄道に埋もれた旧街道跡◆

  小さな沢を回り込むと、そこから北に200メートルほどの下り坂になります。舗装道路が鉄道の路盤と同じ高さになったところで、旧街道の遺構は鉄道土手の下に埋もれてしまうようです。
  現在、JR中央線が通っている場所は往古、旧街道沿いに拓かれた水田が連なる場所だったと見られます。鉄道路盤の幅は十数メートル、その土手の下に舗装道路をつくるために水田は削られたり埋め立てられたりしたのでしょう。
  かつての水田も今では、耕作放棄地になってから久しいようで、深草が繁る荒蕪地になっています。舗装遊歩道の脇には、用水路跡があって、かつては稲作がおこなわれていたことがわかります。

  そんな風景のなか、鉄道の土手を西側に見て歩くこと約100メートル、遊歩道小径は民家の前で行き止まりになり、線路下のトンネルをくぐって国道19号に合流することになります。
  国道に沿って北に20メートルほど進むと荻原沢に出会い、橋を渡って荻原集落の入り口に行き着きます。

  風越山(標高1699m)の南壁の谷間からやって来る荻原沢は、流水量が相当大きい川です。江戸時代、人びとはこの川をどのように渡ったのでしょうか。その頃、木曾川の水位は今より5メートルは高かったので、荻原沢の急流を押しとどめていて、現在の国道と鉄道との間で比較的に安全に架橋できたのかしれません。
  あるいは逆に、激流どうしが合流点でぶつかっていて危険なため、沢筋をのぼってから渡り、荻原集落に入ったとも考えられます。

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