荻原おぎはらは、江戸中期には須原宿から上松宿までの間で最も大きな集落で、戸数は30ほどで、口留番所があったと伝えられています。現在は過疎化が進んで、戸数は半分になり、昭和前期と比べて、少子高齢化で人口は5分の1になってしまいました。
  とはいえ、鹿嶋社・香取社が置かれていることから、室町中期までは小木曽庄を統治する地頭領主、真壁氏の拠点のひとつとなっていたとも伝えられています。


◆集落の中山道跡はかつて国道だった◆



荻原集落を往く旧中山道: 家並みの中ほどで来し方を振り返って、街道沿いに並ぶ古民家



▲達道橋梁の下を流れる荻原沢の急流


▲国道橋梁の下から木曾川に流れ込む荻原沢


▲JR中央線の東側の山裾から荻原の家並みを眺める


▲国道19号から東に分岐して荻原集落に入っていく旧中山道


▲旧街道東脇に並ぶ二十三夜塔と名号塔(念仏塔)  ここに名号塔があるのは、東野の阿弥陀堂への参道ともなっている木曽古道への入り口だからかもしれない。



▲旧中山道は拡幅・舗装され、昭和後期まで国道19号だった


▲右側の古民家は、道路の拡幅に応じて屋根の形を変えた


▲この部分は道路の起伏を均して舗装した
そのため、家屋の基盤が路面よりも低くなった


▲本棟出梁造りの町家構造がよくわかる古民家


▲幕末までの旧街道の路面は、家の基盤と同じ高さだった


▲右手道路脇の石垣の上に常夜灯が立つ。かつてはここが
鹿嶋社・香取社 への参道の起点だったという


▲旧街道はこの先で尾根の背高台から木曾川河岸へ降りていく


▲この先で国道19号にふたたび合流する。


▲段丘崖上を通る国道の路面は河床よりも10m高い位置にある


▲国道との合流地点の手前(矢印の位置)に一里塚跡の碑がある


▲国道との合流点の南傍らの段丘崖に施された石垣。近世城郭の
ように見える石垣の上は斜面の耕作地になっていて棚田もある。

  今回の旅では、荻原沢を北に渡って荻原の集落を探索し、そのあと、国道沿いにおよそ800メートル歩いて小野の滝近辺をめざします。
  道のりは、だいたい1.5キロメートル、荻原沢から中沢(小野の滝がある沢)へ、2つの沢の間を歩きます。風越山の西麓の木曾川峡谷を辿る旅です。小野の滝の辺りの探索は次回報告します。

◆荻原沢と木曾川の合流部◆

  荻原沢は、鉄道橋梁の下から勾配が急に大きくなり、木曾川に向かって急斜面の谷間を滝のように流れ落ちていきます。木曾川に注ぎ込む多くの河川が、合流部の直前で滝のような急勾配になります。共通の傾向ともいえます。そういう地形を目にして、こう考えました。
  現在のように木曾川に多くのダムが設けられる以前は、つまり江戸時代には、この勾配変化の境界線が木曾川の川縁(河床)だったのだろうということです。上流にダムができて、流水量が制限された現在、往古の木曾川の川底の凹みが川岸として露出して、そこに沢が流れ落ちて合流しているのだと。
  そうすると、木曾川河畔を通っていた旧中山道は、現在の木曾川の河床よりも5~10メートルほど高い地点にあったことになります。当然、川幅もずっと広く、その川幅いっぱいに水を湛えて木曾川が流れていたのです。今ではふだん川床が見えるほどに浅い水位(水深)で流れているのですが、そんな状態とはまったく異なっていたのです。
  往時の中山道木曾路を往く人たちは、そういう地形と景観のなかを、危険と隣り合わせで旅をしたのです。JR中央線と国道19号がある現在とは大きく違っていたわけです。
  してみれば、この荻原沢を古い街道がどのように越えていったかは、わかりにくく、地形の変化をふまえて想像・推測するしかないのです。


家並みは尾根の背の高台にある


左が二十三夜塔で右が名号(念仏)塔<

◆荻原の家並みと旧街道◆

  江戸時代の旧街道は、明治時代に新街道制度のもとで桝形を撤去したり、起伏を均したりして荷車や馬車などの車両が通行しやすい道路になりました。やがて国道制度ができると、山間部では経路が変更され、拡幅され舗装されて交通幹線としての国道になりました。
  自動車が通れない道は、幹線道路から外されて、地元住民だけが利用するものになり、利用されなくなってすたれたりすると廃道になりました。
  荻原集落を通る旧中山道も、昭和後期まで国道19号でした。その頃まで、旧街道沿いの集落を通る狭い道路とか、尾根や谷を迂回する窮屈に曲がりくねったところが、いたるところにありました。
  今回歩いているのは、そういう歴史を経てきた道路で、集落の家並みのなかを通っていた旧街道の遺構をもとに国道とした道です。路面の起伏を均すために土盛りしたり路盤を削ったりして、路面を平滑にしたのです。

  家並みのなかには、一階の床面や敷地基盤が舗装道路面よりも50センチメートル近くも低くなっている家屋があります。そういう家は、旧街道の路面と同じ高さの敷地に建築した古い建物です。それだけ、旧中山道の路面は低かった(凹んでいた)のです。
  逆に、土台地盤が高くなっていて道路との段差を石垣で支えている家もあります。そういうところは、東の山裾に向かって斜面が続いていた場所です。家並みの中央部では道路の東脇の家がそうなっています。敷地が尾根の背にあったので、そうなったのです。
  集落の家並みは、東から西に向かって傾斜しているゆるやかな尾根斜面に形成され、旧街道は地形の起伏に沿ってつくられていたということがわかります。
  石垣の上に常夜灯が立っている敷地がまさにそうで、かつてはここから東に鹿嶋社・香取社への参道が続いていたものと見られます。
  道路が曲がっているところでは、路盤が高くなったうえに道路が拡幅されたため、バスなどの大型車との衝突を避けるために屋根を削って後退させた古民家があります。


石垣上に常夜灯は神社への参道の起点だった

◆木曽古道への連絡路と水場◆

  さて、国道から分岐して30メートルほどの道路東脇に2基の石仏が立っています。向かって左側が二十三夜塔で右が名号塔(念仏塔)です――浄土信仰で「波阿弥陀仏」という念仏を名号と呼ぶそうです。名号は丸い書体で刻まれていますが、それは阿弥陀信仰を説いて回った徳本上人の揮毫がもとになっているのだとか。
  そこから東に小径が伸びていますが、これは木曾古道への連絡路でもあり、山裾にある鹿嶋社・香取社に向かう参道ともなっています。この小径を20メートルほど進むと右脇に水場があります。風越山からの名水で「和水なごみ」と呼ばれているようです。


風越山からの水が湧きだしている水場


現在の鹿嶋社・香取社への参道
木曾古道に連絡している

◆一里塚跡の碑と石垣◆

  旧街道が国道19号に合流する手前に荻原の一里塚跡の碑があります。一里塚は、一里(3.75キロメートル)ごとに街道の両脇に設けられた里程標で、高さ2~3メートル、直径5メートルほどの小丘の上に松や榎が植えられていました。
  ここの一里塚は、明治の新街道令または国道令による街道の改造のさいに撤去されたものと考えられます。
  街道の向かい側、段丘崖の上にも小丘があったはずですが、道路脇の段丘崖を改造して擁壁とした工事のさいに撤去されたようです。この擁壁は緻密に組んだ石垣で補強されていて、一里塚の痕跡はありません。
  この石垣は石の形を正確にそろえた切込接きりこみはぎという造りになっています。近世の城郭の一部分のように見えますが、菱状に積む工法は昭和中期のものです。昭和期に旧街道を改造して舗装道路にしたときに、擁壁としての段丘崖を補強するために、精巧な工法で石垣を組んだものと見られます。
  石垣の上は、山腹まで続く緩やかな斜面に拓かれた棚田や段々畑になっていて、鉄道線路の向こう側まで続いています。残念ながら、今はその多くが耕作放棄地になっています。

|  前の記事に戻る  ||  次の記事に進む  |