本町と仲町との境界にある一里塚跡の脇から天狗山にのぼっていく細い遊歩道があります。もとは古くからある杣道で、山裾の小さな神社の参道になっています。それが津島社で、祭神は牛頭天王=スサノオです。
  この細道は、室町後期から戦国時代に寝覚と上松の領主城館を結ぶ軍道で、やがて江戸時代初期に中山道となったものと見られます。


◆天狗山尾根にのぼる道の起点にある社◆



天狗山の中腹に向かう細道の途中に津島社の小さな境内がある



▲本町と仲町の境界の細い路地を山裾に向かう


▲この細道は天狗山にのぼる道で、津島社の参道でもある


▲街の裏手の急な石段で狭い段丘・境内にのぼる


▲山林の名なかでひときわ目立つ赤い鳥居と社殿


▲神楽殿の脇から天狗山の尾根に向かうのぼり道


▲壇上ぼ社殿前から本町の家並みを眺める

  中山道木曾路の宿場街の多くには、街の背後に迫る山腹に津島社または牛頭天王社が祀られています。両社は社号は別ですが、祭神スサノオで、同じ神を祀っています。
  牛頭天王はもともとは祇園精舎の守護神だそうです。祇園精舎とは、古代インドで釈迦が導いていた信者集団の居所です。つまり牛頭天王は仏教における神なのです。
  仏教が古代中国の思想や文化とともに日本に伝来して大和王権の権威を裏打ちする宗教として体系化されました。そして、日本の自然信仰としての神道もまた仏教思想と言説によって体系化されていきます。
  この過程で、日本の国づくり神話も仏教の思想体系のなかに組み入れられて、国づくり神話のなかの英傑スサノオは牛頭天王と同等視されるようになりました。
  言い換えると、人びとに尊崇されているヤマトの神々は、より根源的な仏教思想の世界観によって新たに権威づけられたのです。つまり、日本という特殊な土地=環境のなかでは、仏教世界の摂理を体現する仏神がヤマトの神々として人びとの前に顕現してくると見るわけです。
  ところが、明治維新の神仏離政策によって一時的に牛頭天王とスサノオとの同一性が断ち切られたため、仏教と神道の関係はねじれたものになりました。


鳥居の手前から石段を振り返る

  とはいっても、いずれにしても古代の国づくり神話という物語の解釈における同一視やねじれの問題にすぎないのですが。
  ところで中山道は、木曾路や信濃から見ると牛頭天王=スサノオを祭神とする最有力の神社に詣でる旅を導く街道です。すなわち京の八坂神社と尾張の津島天王社です。上松を含めて木曾路に宿場街には、おそらく街道をつうじてそれらの神社の存在や威信・霊験が伝わり、勧請分霊されたのでしょう。


小さな蓋殿のなかに本殿(祠)が収まっている


蓋殿の横に小さな神楽殿、その脇を遊歩道が通る

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