禅寺、玉林院の境内寺域は、上松の領主、木曾義豊(上松蔵人)の屋敷や城館の跡地(枢要部)を寄進されたものだったと伝えられています。幕藩体制のもとでは、屋敷地は本陣塚本家の屋敷地となり、寺の背後の丘には天満軍が祀られ、天神山と呼ばれるようになりました。 ◆上松木曾氏の城下町と城館・砦◆ |
|
出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻(2012年刊) |
|
▲玉林院の本堂裏手の段丘下が城館跡への上り口 ▲急斜面を高さ6メートルくらいのぼると社殿がある ▲社殿の脇に樹齢200年以上の枝垂れ桜の巨樹が立つ ▲背景に見える山が愛宕山で山頂部に城砦跡がある ▲単万宮の段郭の背後の平地には砦があったと見られる ▲草藪の背後は直線的な切岸で主郭を画している 幕藩体制のもとで上松宿の本陣を担った塚本家は、古くからこの地の土豪で真壁氏にも、その後を襲った木曾氏(上松氏)にも臣従していたと推定されます。 上松氏がいなくなると、塚本家は帰農して郷士となり、やがて徳川幕府から豪農としての資産や算勘識字の才を飼われて本陣に任じられたようです。 |
◆理想的な立地条件の領主城館◆ 玉林院本堂の裏手の丘が天神山と呼ばれるようになったのは、江戸時代にここに天満宮を祀ったことが理由だと見られます。そして、玉林院が上松の教育や文化の中心的な担い手になり、近隣の人びと――とくに子どもたちや若年層――のために寺子屋あるいは手跡指南所を運営していたのではないでしょうか。
上松蔵人と名乗った木曾義豊――1570~90年代か――は、玉林院の現在地寺領を寄進=開基して禅刹を創建したそうです。
|
出典:上掲『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻 |